「貧しさによって富む」Ⅱコリント8:1−15 |
このパウロの献金活動にマケドニアの諸教会が「激しい試練」(迫害)を受け、「極度の貧しさ」にありながらも豊かに応答したことをパウロはコリント教会の人々に伝えている。彼らは「力に応じて、また力以上に、自分から進んで」そのことを願い、「自分自身を献げた」のである。極度の貧しさの中からのささげものは量的には決して巨額な者ではなかったと思う。しかし、貧しいやもめが生活費のすべてであった2レプトン(200円にも満たない)の献金を「だれよりもたくさん入れた」と主イエスは言われたように、マケドニアの諸教会の人々は多くをささげたのである。
一方、この手紙を受け取ったコリント教会ではパウロとの関係が悪化したこともあるが献金活動が中断していた。コリントの町は経済的に非常に豊かな町であったと言われている。コリント教会には経済的に豊かな人たちがいたが、エルサレム教会に対する献金に対して「他の人々には楽をさせて、自分たちは苦労するのか」(13節参照)という不平や「人を支える余裕などはない」という声があったようだ。しかし、パウロはこの献金を再開し、「やり遂げるように」とコリント教会の人々に勧めるのである。
パウロのコリント教会に対する勧告は、決して私たちと無関係ではなく、私たちへのチャレンジとして響いてくるものでもある。今日は、午後から中会会議行われる。私たち国立のぞみ教会は「一つのキリストの体なる教会」の部分である。カンバーランド長老教会のOUO(Our United Outreach)献金は「一致のしるし」として意味を持っている。しかし、厳しい財政状況の中で「私たちには余裕がない」という声も強く、OUO献金はここ近年低迷している(昨年は上向いたようだ)。私たちの教会もOUOそして「中会分担金」という全体教会の働きのためにささげている。このことをこれからも教会として大切なこととしていきたい。献げることを失った教会は命を失ってしまう。
またカンバーランド長老教会に限らず、教団教派を超えて「一つのキリストの体」を見る時に被災地にある教会、そこで苦闘している兄姉たちがいることを私たちは知っている。私たちは私たちの「力に応じて」、「持っているものに応じて」献げるものでありたい。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点において豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)