「お前たちは何者だ」 使徒言行録19章11-20節 |
この者たちは祈祷師(エクソシスト=悪霊払い)として、パウロが宣べ伝えているイエスの名を自分たちの商売に利用できるかどうかを試したというのだ。すると、悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言い、悪霊にとりつかれている男が7人の祈祷師に飛びかかった。7人は裸にされ、傷つけられて、その場から逃げ出したというのだ。イエスの名を使って悪霊を追い出そうとした者たちが、逆に悪霊に裸にされて追い出されてしまうという、言ってみれば喜劇仕立てのようにしてルカは物語っているのである。
「いったいお前たちは誰だ」。
この悪霊が祈祷師たちに向かって放った言葉は、また私たちに向けられた問いでもある。私は今日の箇所からいくつかのことを思わされた。一つは、祈祷師たちがしたように、神を試して、自分の都合に合うか、合わないかといったように、神様を位置づけることである。「試す」という言葉の中に、すでに自分たちの側にある種の基準があり、その基準に基づいて判断するということがはっきり示されているのだ。イエス様が荒野の誘惑で神様を試みることを退けたことを思い出そう。そして、イエス様の歩みは、自分の側に神様を位置づけるのではなく、あのゲッセマネの祈りにおいて明らかにされているように、神様の御心に自らを位置づけていく歩みであったことを思い出そう。
もう一つ「いったいお前たちは何者だ」(” Who are you?”)という問いから考えさせられることは、私たちはいったいそれにどう答えるかということだ。この質問はそれこそ私たちの存在の根本を問うてくるものだ。私たちは職業や地位や名誉など色々な物を身につけながら必死にこの問いに答えようとするのだろうか。
『みんなのカテキズム』という洗礼勉強会などで用いる問答形式になっているアメリカ長老教会が作った本がある。その第一問はそれこそ「あなたは誰ですか」(゛Who are you?”)なのである。そして「わたしは神様の子どもです」と答えが記されているのである。
「わたしは神様の子どもです」。このように私たちはキリストのゆえに答えることが許されている。それは何という恵みであろうか。私たちはイエス・キリストの命をかけて愛されている存在であり、かけがえのない者とされているのだ。
そのことをどっちつかずに軽く扱うことは許されてないということを今日の箇所は私たちに教えているのだ。 「私は神様の子どもです」という告白を、新しく始まるこの週の歩みの中で現わしていこう。