「知られざる神に」 使徒言行録17章16-34節 |
アテネには様々な像が置かれ、その数は人口よりも多かったと言われるほどだった。パウロはそれらを見て憤慨した。だから、私たちも町にある偶像に憤慨し、それをたださなければならないということなのだろうか。正しいキリスト教が異教の誤った観念を正すということなのか。
佐藤牧師の講演会でアメリカ先住民を追い出して土地を奪い取った教会の歴史を聞いた。その収奪は聖書にかなうこととして正当化されたという。キリスト教が善で、イスラム教は悪という色分けをしている教会の現実がある中で、私たちはこの偶像に憤慨したパウロの記事をどう読むべきなのだろうか。
ブルトマンはこの箇所の説教で、偶像が町中にあふれているのは「人間の不安が表れている」と語っている。神々が増えるところ、祭壇が増えるところには人間の不安があるのだ。23節の「知られざる神に」という祭壇はその最たるもので、「知られざる神に」さえ祈りをささげなければ、自らの身に災いが起こるのではないかという不安が人々を支配しているのだ。
人間の不安は、宗教と密接に結びつく。いわゆるカルト宗教と言われるものは、この人間の不安を巧みに利用する。「ギルト・トリック」だ。信仰が足りないから、不幸が起こる。だからもっと熱心に! それがマインド・コントロールとなり抜け出せなくなる。不安に支配されるからだ。それが偶像礼拝の本質だ。
パウロは、ただ像があることに怒っているのではない、。不安で人々を支配しようとする宗教に対して否をアレオパゴスの説教として語っているのだ。つまり、神に対して人が何かをしなければ神は喜ばれず、恵みを与えないという宗教に対する厳しい批判なのである。ユダヤの律法主義的宗教もまた同じであったと言えるだろう。結局、偶像礼拝は人間側で神を支配できるとすることなのである。
イエス・キリストによって教えられる神はそうではない、とパウロは語る。神は与える神である。命、息、すべてのものを私たちに与えてくださる。そして、その神は私たちから遠く離れている神ではなく「我らは神の中に生き、動き、存在している」。それなのに、神を誤解し、人間の技巧や空想で何かを刻んだり、何かをささげたりしなければ神は喜んでくれないと考えた結果、町中に像が立ち並び、供え物が氾濫している、とパウロは語るのだ。
神は、人がどれだけ持っているかとか、何をしたかではなく、その存在そのものに祝福を与えてくださる。主イエス十字架と復活はそれを明らかにしたのだ。
私たちの社会は、持つことや能力によって人間の価値が決められるような社会だ。そこに不安が支配している。偶像に満ちている社会ではないか。その中で、イエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされた福音を宣べ伝える使命がやはり教会に託されているのではないだろうか。