「造り主をほめたたよ」 使徒言行録14章1-18節 |
そのリストラでは、生まれつき足が悪く、一度も歩いたことのない男をパウロが癒したことを巡って騒ぎが起こった。リストラの群衆はパウロの癒しの業を見て、その地方に流布していたゼウスとヘルメスの伝説が実現したと騒ぎ、バルナバとパウロをそれぞれゼウスとヘルメスとして礼拝しようとしたのである。それを知ったパウロは服を引き裂き、それをやめさせようとした。ヘルメスとは幸運をもたらす神であり、多くの人から信仰されていたという。パウロは一人の人の信仰によって起こった癒しの出来事が、異教的な信仰の対象とされたことを断固反対したのだ。
これはキリスト教会においてもよくよく注意しないといけないことだ。アメリカの教会のレポートを読んだことがあるが、信仰を通していかに人生が成功したか、商売が拡大したかということが教会の中で語られることが多いとのことだ。拡大の論理と言ってよいだろう。どこかで主客が転倒してしまうのだ。しかも、この転倒は微妙であり、巧妙なのである。「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。
先週、牧師会で軽井沢に出かけた。星野リーゾトを見学する機会があったのだが、そこに結婚式にも使われる「石の教会」があった。見たことのない石造りのおしゃれな教会で、人気があるのも肯けた。面白い事に、その石の教会の下には無教会の内村鑑三の記念館があるのだ。無教会であった内村の記念館の上に、素敵な立派な石の教会が建っている。「天国の内村先生は何と言っているかね」と冗談交じりで笑ったが、そういうことはあるのだと思う。いつの間にかに大きく変わってしまっているということが。主イエスは今の教会を見て何といっているか・・・・・・。それは常に問われなければならないことである。パウロがヘルメスとされそうになったことを拒絶した姿からそのようなことを問われた。
そして、パウロは「むなしいもの」から天地を創造された生ける神に立ち帰るようにと勧めた。そのことを宣べ伝えているのだと。そこで語られている神の証しは非常にシンプルなものだ。雨を降らせ、実りを与え、日々の糧を与え、命が保たれる喜びを与えてくださる。それが神の証しであると。ゼウスとヘルメスがもっともっとという拡大論理の神だとするなら、生ける神は小さな命を大切に育むその業の中にこそ恵みを表されるお方ということだ。命がこの上なく軽んじられている現代はそれこそ「ヘルメス」にひれ伏しているようだ。教会が同じになってはならない。それを拒否し、神の創造の御業をほめたたえ、ひれ伏す者たちでありたい。