「起きなさい」 使徒言行録9章32-43節 イースター礼拝 |
あの朝、墓へ向かった女性たちは、イエスの遺体が見当たらずに「途方に暮れていた」。そこに輝く衣を着た二人の人から先の言葉をかけられ、彼女らは「イエスの言葉を思い出し」、弟子たちのところへ行き、一部始終を知らせた。ルターは「知らせた」を「宣教した」と訳した。墓へ向かい、途方に暮れていた女性たちの歩む向きが変わった。過去に向かった足が、未来に向かったと言い換えてもよいかもしれない。イエスの言葉(=出来事)を思い出し、女性たちの生き方が変わったということだ。
転入される和田姉の証しに「世に従ってうまく生きること」から「自分を委ねてイエスさまに従って歩んでいく」生き方へと変えられたとあった。主イエスとの出会い、主イエスの言葉との出会いによって私たちの生き方が根本から変えられる。まさに私たち一人一人を通して、主が今を生きる私たちに働いておられることが証しされるのだ。今日の礼拝には香港、韓国、中国の友たちと共に礼拝をささげている。文化も言葉も違う。しかし、ここに主イエスにあって一つに集められ、復活の主を礼拝している。そこに主の復活の証がある。
読み進めている使徒言行録9章32節以下はちょうどイースターと響き合う箇所である。そこにはペトロによる中風の男の癒しとタビタを生き返らせる物語があった。それこそ病や死によって墓に行った女性たちと同じように「途方に暮れる」現実がペトロの前にあったのだ。教会が直面していたといっても良いだろう。死や病はまさに私たちを動けなくさせる力、束縛する力だ。
ペトロはいずれの場面でも同じく「起きなさい」と言葉をかけた。戸惑う。そんな言葉に何の意味があるのだ! ペトロが目の前にした現実を考えれば考えるほど何と馬鹿げた言葉だろうと思う。しかし、ペトロが「イエス・キリストが癒してくださる」と語り、「起きなさい」と言ったことが何より重要だ。ペトロに何か力があるから彼は「起きなさい」と語ったのではない。イエス・キリストにこそその力があるのだ。そうだ、死を打ち破られたイエス・キリストにおいて!
聖書で「起きなさい」という言葉が発せられるところには、起きることなんてありえないという人間の現実が常にある。途方に暮れている現実がある。しかし、その現実を突き破るように「起きなさい」との言葉が私たちに語りかけられるのである。「あの方はここにはおられない。復活したのだ!」 そこから響く「起きなさい」との呼びかけに応えるものたちでありたい。そこに主の復活の命が証しされる!