「語り続けよ―遣わされる者として」 使徒言行録18章1―11節 |
パウロはユダヤ人たちに対して「メシアはイエスである」と力強く証しをした(5節)。しかし、ユダヤ人たちは「反抗し、口汚く罵った」(6節)。そしてパウロは絶交を宣言し、異邦人伝道へと出かけていく。なぜこの一連のやり取りが、そこまでの対立を生んだのか。それは、やはりパウロが語った内容にある。パウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝え」たのだ(Ⅰコリ1:23)。そしてパウロはその「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と語る(Ⅰコリ2:2)。
ここはとても大切なところである。青野太潮氏はここをギリシャ語の文法どおりに「十字架につけられたままのキリスト」と訳すべきであることを指摘されている。「十字架につけれたままのキリスト」という表現は、非常に神学的な表現であり、パウロの信仰の表現であるのだ。つまりパウロの信仰において、復活し今も生きておられる復活のキリストは、今も「十字架につけられたままの姿でいるキリスト」なのである。
そのキリスト以外何も知るまいと決意した背後には、コリントにやって来る前に体験したアテネでの失敗がある。パウロはアテネでの伝道に失敗し、コリントにたどり着いた時、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だった。
その憔悴しきったパウロにとって、十字架のキリストがまさに実存に迫ってきたのだ。衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安である自分の姿が十字架につけられたキリストと響き合ったのだ。だからパウロは「わたしもまた、十字架のキリストと同じように衰弱し・・・」と語ったのだ(「わたしは」ではなく「わたしもまた」と訳せる)。
キリストは高いところから私たちを見下ろしておられるのではない。人間の苦しみや悲しみや不安とかけ離れたところにおられるのではない。十字架につけられたままのキリストが最も低みにおいて私たちを支えていてくださるのだ。私たちはそのことを遣わされるところにおいて語り続けよと命じられているのだ。たとえどん底に置かれようとも、いやまさにそこにこそ、主イエスの十字架が立っている。そこで十字架につけられたままのキリストに出会えるのだ。だからこそ、私たちは立ち上がり、生きることができる。その希望を現代社会の闇の中にあって語り続けよと命じられているのだ。
教会がこの時代にたてられている大きな意味は、弱さを通して強さを語れる、ということだ。人も、国も、強さを求める。少数の優秀な人間だけが重要だという思想や、武器を持つことによって安全が得られると強弁するのはその現れでもある。しかし、聖書の福音は常に逆説で語られる。十字架につけられたままのキリストがおられるが故に、私たちは「弱い時にこそ、強い」(Ⅱコリント12:10)のである。そのことを語り続ける者たちでありたい。