「富よりもイエスに」 マルコ福音書10章17-31節 |
その人に対してイエスの言われたことは衝撃的だった。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。このイエスの言葉の前にわたしは立ち尽くしてしまう。気を落とし、悲しみながら立ち去ったこの男の姿にわたしは自分を重ねるように思うのだ。そして「それでは、誰が救われるのだろうか」という弟子たちの声もまたわたしの声のように思う。
しかし、まさにその一点。「それでは、誰が救われるのだろうか」という問いこそがこの金持ちの男に必要だったのではないか。一生懸命、不安になりながらも健気に律法を守り、自分の力で何かに到達しようとしているこの男に、まさにそのことを捨て去れ!何もない状態で、何もない姿で、誰が救われるのだろうという問いを自らに持ちながら、わたしに従ってきなさいとイエスは招かれたのだ。
それでも、彼は従えなかった。気を落とし、立ち去ってしまった。彼の後姿を想像する。背中を丸め、落胆した姿がそこにはあっただろう。しかし、金持ちの男にとって本当はここからが大切だったのだと思う。なぜなら、イエス様は立ち去る後姿を、なおじっと慈しみの(=愛の)まなざしでご覧になっていたと思うからだ。「あなたに欠けているものが一つある」と言われた男にもう一つ欠けていたのは、このイエス様の愛のまなざしに立ち返れなかったことだ。「すべてを捨てて従ってきた」と豪語した弟子たちも結局は後に「イエスを捨てた」。しかし、彼らはそこから立ち返り、生きることがゆるされたように、彼もまたその落胆したところから、主に赦され、生きることが出来た。私たちが永遠の命を受け継ぐとは、まさにこの主イエスの愛と慈しみのまなざしに生きることに他ならないのだ。
先週の日曜日、めぐみ教会の礼拝から帰ってくると伝道集会のために何人かの人が玄関を掃除していた。風が強く、ちょうど玄関が吹き溜まりになっていたのだ。すると清田長老が「そうよ、教会は吹き溜まりよ」と言った。「吹き溜まり」を辞書調べると「人生の落伍者の集るところ」とあった・・・。「失礼な!」と言われるだろうか。しかし、本当に神様なしでは生けていないと素直に受け止めることのできる、そんな人こそ主イエスは神の国を受け継ぐ者と言われるのだ。今日の箇所の前段が「子どもを祝福する」記事であることは重要であるし、まさに自分は大丈夫と思い込んでいる先の者が後になり、自分は駄目だと落ちこぼれているような人が神の国では先になる。これが神の国の法則なのだ。
今日、私たちは、この主イエスの愛に気づき、自分たちの富、力を誇るのでもなく、また、落胆して立ち去れるでもなく、ただ、イエス様に立ち戻り、恵みをいただき歩みだす者でありたい。