「僕になりなさい」 マルコ福音書10章35-45節 |
主イエスが十字架へその歩みを進める只中で、弟子たちは今なお「誰が一番か」を互いに探り合っていたわけだ。他の10人の弟子たちもこのことで腹を立てたというのだから、ヤコブとヨハネの同じ思いをもっていたのだ。
どんな小さな集団でも、人と人が集るとそこで覇権争いが起こる。誰もが人の上に立とうと欲する。威張られるよりは威張る方を。命じられるよりは命じる方にいなければ損をした気持ちになる。人間の業というか、人間のどうしようもない姿を思い知らされる。
主イエスはこの人間の抱え持つ支配欲、権力欲というものがいかに人間にとって捨てがたい思いであるのか、どれだけ執拗で、わたしたちを誘惑してくるのかをご存知であったと思う(荒野の誘惑の記事を見よ)。だからこそ主イエスはヤコブとヨハネだけではなく「一同を呼び寄せて言われた」のだ。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうではない」。つまり、主イエスは、世の中、ローマ帝国の支配からも明らかにように、力を持ち、そして支配している者が偉いとか、第一人者=元首とか言われているが、あなたがたの間ではそうではない!
今、私たちの生きる時代は、主イエスが批判された時代様相と似ていると思わされる。先週教育基本法「改正」を問ういくつかの本を読んだ。愛国心の問題はもちろんだが、それ以外にも多くの問題があることを改めて教えられた。一つは教育の主体が「国民」(ここにも在日外国人の人々の問題もあり限界はあるが)から公権力へ移ってしまうこと。そしてもう一つは新自由主義=競争至上主義によって教育が行われることもまた大きな問題である。高橋哲哉さんは「自由競争といえば聞こえがよいかもしれないけど、ようするに強者の自由が拡大し、強者の権利が拡大するだけで、多数の人にとってはむしろ不自由が拡大し、権利が縮小する」と指摘しておられる。
今、この国(=異邦人の間)で行われているのはまさに、支配者が力を振るいやすいようにしている。そして、そのような者が偉い者、一番上の者といわれている。しかし、あなたがたの間ではそうではない。弟子の間では、教会はそうではないと言われているのだ。
主イエスは偉くなろう、上に立とうとする弟子たちに「皆に仕える者」、「すべての人の僕」になるようにと教えられる。これは、「自分の命を献げるために来た」主イエスの後に従うキリスト者の憲法のようなものである。生涯をかけて希求すべき目標である。わたしたちも弟子たちのように、何度も失敗しながらもこのことを追い求めて歩む者たちでありたい。