「頭を上げなさい」 ルカ福音書21章25-36節 |
『賛美歌21』43-3が頭に浮かんだ。「主よ、おいでください。kum ba yah, my Lord, kum ba yah」。いわゆるアフリカ系アメリカ人の霊歌だ。”kum ba yah, my Lord=Come by here, my Lord” これはいわゆる黒人たちが背負わされてきた苦難の歴史、そこからの解放を求める心の叫びなのだ。「主よ!ここに来てください」。
先週、フレデリック・ダグラスという人の物語を本で読んだ。彼は奴隷の子どもとして生まれながらも、身を起こして19世紀にアメリカで奴隷制度に立ち向かって命がけで闘った人だ。その彼の闘いを深いところで支えたのは信仰であった。求道中の彼はあるとき「突然、イエス・キリストの中に信仰を見出した」という。そして、「この世に神様がおいでなさるなら、いつまでも、こんな世の中をゆるしておかれるはずがない」という幼い頃、祖母から聞かされた言葉が生々しくよみがえってきたというのだ。この言葉こそがダグラスを「神の御心にそうようにこの世を回心させる」ことへと突き動かした力だった。祖母の言葉は、ダグラスに信仰を与え、そして希望を与えたのだ。
きょう与えられたルカ21:25以下はこのようなことを言っているのだと私は思う。25節以下に記される天変地異。それは自然現象を表現しているのではなく、歴史の状態を指し示しているのだ。平行箇所のマルコ13:24では天体に現れる徴とは光が失われることだと分かる。つまり、この地から光が失われ、闇が地を支配する。主イエスが十字架で処刑された時、「太陽は光を失っていた」(ルカ24:45)時の闇だ。神不在の闇だ。
ルカ福音書の読者はローマによって神殿が破壊され、キリスト者は迫害される歴史的状況に置かれていたのだ。まさに「なすすべを知らず、不安に陥った」者や「何がおこるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」ような状況におかれていたのだ。「終わりなき夜」と時代の闇を表現した者がいたが、まさにそのような時だったのだ。
しかし、主は言われた。絶望が支配しているだけのようなまさにその時、人の子が来ると。だから、あなたたちは身を起こし、頭を上げなさい!解放の時が近いから、と。勇気を出し、希望へ向う姿勢を表現しているのだ。
「終わりなき夜」は歴史において指し示される。そしてまた私たちの人生においても「終わりなき夜」がある。しかし、「神様はそのことを許しておかれるはずがない」。たとえ、今はまったく光が見出せないような中にあったとしても。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶかれらの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト3:7)。私たちは、この神こそが私たちの歴史を公平と正義へと導かれる方であると信じる(エレミヤ33:5)。闇の深まり行くこの時代の中で、その希望を失ってはならない。「身を起こし、頭をあげなさい!」。