「主に仕える教会」 ヨシュア24章14-28節 |
そして、このバアル信仰は社会に多くのひずみを生み出す。更なる豊かさを、収益を求めて領土を拡大するために土地を奪い合う。貧富の差の拡大、人間を労働力として搾取すること、権力の集中、快楽を追及し性的な乱れが蔓延、日和見的な外交・・・。今日の日本社会の状況を見るようではないか。
ヨシュアはそのような状況の中でイスラエルの民に「主に仕えなさい」と命じ、「今日、自分で選びなさい」と迫り、「わたしとわたしの家は主に仕えます」と自ら告白した。「今」、「今日」というのは昔の今ではない。私たちにおける「今」である。
4日の朝刊に作家の澤地久枝さんが文章を寄せていた。彼女は五味川純平氏が「戦争は経済行為だ」とすでに指摘されていたことを引用し、「今」というときが、富国強兵ラインを行く結果が、人々の生活を蝕み始めていること、「今」がそれこそ昭和前期の戦争前夜の世相とまったくよく似ているという。このような状況の中で希望のともし火、その熱源は「一人ひとりの心、決意にこそかかっている」と澤地さんは書いている。私たちに引き寄せればバアルではなく、主に仕えることに今心を決める、決意を固めるということなのではないかと私は思う。
イスラエルの民は、決意した。「仕えることはできないだろう」というヨシュアの言葉にも「いいえ」といい、「主に仕える」決意表明をした。
だけども、そのところからイスラエルの民は右に曲がり、左に反れ、主に仕えることから大きく逸脱していったのだ。同じように私たちの「決意表明」がいかにあてにならないものかということは私たち自身が一番良く知っている。しかし、ヨシュアが24章で振り返ったイスラエルの救いの歴史はその後イエス・キリストへと至るのだ。私たちの「背きと罪」(19節)を背負ってくださったキリストへと神の救の恵みは続いたのだ。このお方こそが、私たちの「見よ、この石」(27節)である。イエス・キリストの赦しのゆえに私たちは新しく心を主に向ける決意ができるのだ。そのこと抜きに私たちは主に誓うことはできない。
元旦礼拝で大澤長老が「新しい年を迎え、私たちはまた一つ年を重ねますが、信仰においては日々新たにされていくことができるように」と祈られたその祈りが私にはとても新鮮に聞こえた。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16)とパウロが言うとおりだ。
今年一年、私たちも、教会も、御言葉に養われ、日々新しく、今という瞬間に主に仕えていく、主に心を傾けていく歩みをしていきたい。今日からまた新しく始めることができる!何と嬉しいことだろうか!「主に仕える教会」として一年の歩みを始めよう。