「祝宴の神」 ヨハネ福音書2章1-11節 |
ところがイエス様が出席されていた婚礼の舞台裏で「ぶどう酒がなくなる」という事件が発生した。ぶどう酒はイスラエルの人々にとってただの酒ではなく、喜びをもたらすもの、神様から賜物として称賛され、ぶどう酒が豊かにあることは祝福であると考えられていたのだ。だから婚礼の席でぶどう酒がなくなるという事態は「縁起が悪い」と言われるようなことだったかもしれないし、興ざめすること間違いなしという事態なのだ。
「ぶどう酒がなくなりました」ということは、しかしまた私たちにも起こることなのではないだろうか。生きる喜び、祝福が切れてしまった・・・。新年には多くの人が初詣に出かけ今年一年を喜び幸せに過ごすことを祈念している様子をニュースなどで目にするが、私たちは私たちの人生の喜びというものがしばしば些細なことで崩れていってしまうことも知ってもいるのではないだろうか。「健康第一、商売繁盛、家内安全」、それらは私たちに喜びを与えるに違いない。しかし、健康を損なえば、収入が減れば、家庭に何らかの問題が生じれば、今まで味わえていた喜びが一瞬にして失われてしまうことが如何に多いことか。
私は、高校野球に自分のすべてをかけて生活をしていた時、夢があり、希望があり、充実感があり、そして喜びがあった。しかし、高校3年生の夏に高校野球生活が終わった時、私はこれからどうやって生きていけばよいのだろうか、といいようもない恐怖に襲われた。それは私にとって「ぶどう酒がなくなってしまった」という経験だと思う。人間が一生懸命準備するぶどう酒には限りがあるのだ。人間の用意するぶどう酒でいつまでもなくならない物はない・・・。
マリアは、ぶどう酒が切れたことをイエス様に知らせた。何とかしてくれないかという思いがあったのだろう。これが実は私たちにとっても大切なことなのだと思う。イエス様はここで私たちには少し冷たいように感じる言葉をマリアにかけるが―ここは、イエスは人間の思いではなくあくまでも神の意志によって行うことが強調されているのだ―しかし、ぶどう酒がないという危機的状態に対して応じてくださった。しかも最上のぶどう酒が振舞われるという形で!私たちにとっての信仰というものは、それこそもっとも良質なぶどう酒であり、もっとも良質な喜びであるのだ。信仰は健康がなくなった、お金がなくなった、楽しみがなくなった、夢がなくなったということの代替品としてあるのでは決してない。はるかにまさるぶどう酒、喜び、祝福なのだ。
そして、「あなたの神はあなたを喜びとされる」(イザヤ62:5)ことこそが、私たちにとって何にもかえがたい喜びなのだ。ぶどう酒切れで教会に戻った私はこの喜びによって本当に生かされることを知った。主イエスがこの喜びを十字架という最大の愛によってあきらにしてくださったことを私は知ったのだ。尽きることない喜びはイエス・キリストのもとにある。私たちの神様は私たち一人ひとりに喜びを満たしてくださる祝宴の神なのだ!