「再召命」 ヨハネ福音書21章1-19節 |
私たちも、復活の主にそれぞれの状況の中で出会い、主イエスに従うようになった。礼拝において毎週復活の主を礼拝し、派遣の言葉を受けて、遣わされて行く。しかし、一歩教会の外にでるとまた元の日常生活に埋没してしまう・・・。先週の聖書会の分かち合いの中でもそのような経験が話し合われた。そして、日常生活の中で四苦八苦し、夜通し漁をしても何も捕れない、「徒労」と思える現実に直面しているのが私たちの経験としてあるのではないか。決して私たちの日常に意味がないということではない。しかし、人生の本質的な問題といってよいかもしれない。私たちが主イエスなしに歩む「徒労の現実」を聖書は語っているのだと私は思う。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)。創造主を覚えること、いのちを与えたもう方を覚えることが人間らしく生きる上で不可欠なことなのだ。そのことを抜きに日常生活に埋没するとき、私たちは「徒労の現実」に直面するのだ。復活の主がおられるのに、「それが主だとは分からなかった」(4節)弟子たちは、まさに私たちの姿ではないだろうか。
しかし、そのような私たちの日常性の中に復活の主は来てくださったのだ。そして、弟子たちには「何もない」(5節)ことを知った上で、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられる。「右側」とは「神の側」を聖書では意味する。今まで自分の経験や判断、努力に頼ってきたところから、新しく、神の側に網を打ってみよ!その時に弟子たちは大漁の奇跡に出会わされた。私たちの人生を本当に導かれているのはどなたか。教会を導かれるのは誰かということを知ることは本当に大切なことだ。
先日教会でハンドベルのコンサートが行われた。一つ一つ違う音のベルを駆使して、天使のハーモニーを奏でるのは本当に難しい。そのハーモニーを導いているのは指揮者の先生だった。奏楽者たちが指揮者を信頼し、指揮者の求めることに精一杯応えるところに素晴らしい音楽が生まれた。好き勝手に音を出せば、一つ一つの音は素晴らしくても、素敵な音楽にはならない。
信仰生活もそうだ。主イエスが私たちに何を求めているのか。そのことを抜きに、好き勝手生きることは、本来は素晴らしい音を持っているにもかかわらず、それを生かすことにはならない。調和した歩みができない。
復活の主は、自分たちを優先し、逃げ出したペトロたちを見捨てることなく、「わたしに従いなさい」(19節)再び招いてくださった。この赦しがあるからこそ、私たちはこの日から新しく生きることができる。主が私たちに言葉をかけてくださる。ありがたいことだ。
「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(コヘレト12:13)。