「意外な知らせ」 マタイ福音書5章1-12節 |
『彩花が教えてくれた幸せ』という本に出会った。著者の山下京子さんは、14歳の少年に愛娘を奪われた方だ。彼女は想像でき得ない究極の苦しみをその身に負われた。その彼女がその手記の中で「ここでは好きなだけ泣いていいよ」「思いっきり泣ける場所」。そのような声と場が必要だと語られる。しかし「思い切り泣ける場所」はそんなにあるものでもない。
イエスは、山上の説教の冒頭で「心の貧しい人は幸いである。悲しむ人々は幸いである」と語られた。これは字面では分からない言葉だ。決して分かりやすい言葉でもない。以前ケセン語訳でこの箇所が朗読されたのを聞いたことがある。何とも言えない言葉の温かさに包まれた体験だった。
京子さんはある時、「母さん、私は大丈夫。もう人を恨まんでええんよ」という娘さんの声が命に届いたという体験をされたと言う。命に届く声。イエスがあの時語った「幸いなるかな」は命に届く言葉だったに違いない。イエスの周りにいた群衆は、自分ではどうしようも出来ない苦しみや病をかかえていた人々だ。そこに何の脈略もなく「幸いなるかな」と語った言葉。たよりなく、のぞみなく、心細い中に置かれている人、悲しんでいる人がまさに神さまの懐に抱かれている。神様が包んでくださっている。だから「幸いだ」とイエスは言う。ここでは思いっきり泣ける。見栄を張らずに。そういわれているのだと思う。主イエスはその悲しみのただ中に来られ、そこに天の国を明らかにして下さったのだ。
今回3節と10節の天の国に囲まれている「八福」に生きるのが教会の姿だと思わされた。主イエスの大きな祝福の中で慰められる者がいる。そしてその祝福に応答して生きていく者たちがいる。そういう教会の姿である。
その「八福」は、楽器は違うが、互いに響き合う音を出しているように思える。オーケストラの演 奏で本当に感動的なハーモニーを奏でた時、建物が振動すると言う。それと同じようにこの「八福」がこの地上で共鳴した時、つまり私たちがこの「八福」を生き始めたとき、この地が震える出来事が起こるのではないだろうか。まさにそこに神の国、神の支配が実現するのではないだろうか。それがシャーローム=最も小さい者の命が傷つかず、命が満ち溢れている状態であろうし、主イエスの周りにすでにあった天の国であろう。
主イエスの天の国をこの地上にあらわすのが、のぞみ教会がこの地に立てられている意味である。絶望的な者がなお慰められる。そしてその祝福に応答的に生きるものたちがいる。それが教会だ。私たちは欠けを持つ人間の集り、不協和音を発してしまうだろう。しかし、主イエスが導いてくださる。「生き方違うよ」と。主イエスの「幸いなるかな」を聞き取り、今それぞれの音を調音し、ここから歩みだそう。