「キリストによる自由」 ガラテヤ5章13-26節 |
私たちが毎週守っている礼拝は、天と地が一つとなって神を賛美する時である。先週、天に送ったR姉も今、一緒に神様を賛美をしているのである。それが私たちの信仰である。
先日、ある教会の長老が自分の死を前にして教会で証をした話しを聞いた。「今ここで揺らいだら、今までの信仰生活は何だったのか。何十年と聞き続けてきた御言葉の説教、復活への希望はなんだったのか」と語り、「大丈夫だ」と力強く証しして天に帰られたと聞かされた。イエス・キリストのゆえに私たちにとって死は絶望ではなく、終わりではない。私たちは死の力さえも自由にされているのだ。
今日の箇所は「キリスト者の自由」という小見出しがある。パウロがガラテヤの教会の人々に向かって、律法の奴隷からの解放を語る箇所である。キリスト者は、あらゆる律法から、権力から、この世の価値観から自由にされている、とパウロは語る。律法を私たちを縛るもの、身動きを取れなくするものと考えれば、「死」というものも、恐怖で私たちを縛り、身動きを取れなくするものではないか。しかし、キリスト者の自由とは、そのようなあらゆる「~から」の自由である。
しかし、もう一つキリスト者の自由として大切のことをパウロは今日の箇所で語っている。「自由を肉に仕える機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」。キリスト者の自由とは「~からの自由」であると同時に「~への自由」なのだ。パウロの言葉を使えば、仕えることへの自由。これがキリスト者の自由において大切な面である。パウロは16節以下で肉と霊の実を具体的に展開する。肉の業は一言で言えば自分中心である。どこまでも自分の欲求を満たすことに終始する。それに対して、霊の実は、親切、寛容、善意とあるように、他者とのかかわりの中で結ぶものである。パウロは「律法は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句に全うされる」(14節)と言う。この律法にだけ服する。それだけの奴隷となる。それが真のキリスト者の自由だ。一人の姉の葬儀を通して、いよいよ教会に託された、キリスト者一人一人に託された自由を教えられた。一人の姉の死を通して私たちは教会の存在意義を根本から問われているのだ。
葬儀に参列した多くの人が、「教会ってすごい」と驚いていた。教会の人たちの親切、善意、誠実さに心を打たれたとも言われていた。素直に嬉しい。私たち一人一人は肉にとらえられるような者だ。しかし、それでもなおキリストのゆえに生きていこうとする者たちの姿を今回の葬儀を通して証しすることができたと思わされている。
私たちは、仕えることへ自由とされている、ということをキリスト者の大切なこととして受け止めていこう。そしてそこにこそ私たちがキリスト者として生きる意味がある。「霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)。