「アフタークリスマス」 マタイ福音書2章13-23節 |
一体この年、何人の子どもたちが理不尽にその尊い命を奪われた事だろうか。一体どれだけの「激しい嘆き悲しむ声」がこの地上にあるだろうか。戦争において、テロによって、飢えによって、虐待によって・・・。一体どれだけの命が奪われたのだろう。しかも、決してそれは私たち一人一人と無関係に起こっていることではないのだ。私たちの命はそれら多くの子どもたちの犠牲の上に成り立っているのだ―特に「第一世界」と呼ばれる国に住む私たちは。
説教の黙想をしている時、主イエスはこの事件を一体どのように受け止めたのか?という思いがわきあがった。マタイ福音書は3章からすでに成人した主イエスを描き出す。その間の30年間を2章に照らして想像することが許されるならば、主イエスは自分の生い立ちを知って愕然としたのではないか。自分と同世代の子どもたちの命が奪われた出来事に。「なぜ自分は生かされているのか」という問いを持ったのではないだろうか。そしてその主イエスは最後、理不尽極まりない中で、十字架という最も残忍な処刑方法で殺された。まさに幼子たちと同じところにその生涯の最後のところで立たれた。いや、その命をかけて「神の国の福音」を宣べ伝えたその生涯にすでに、犠牲になった幼子たちの命が織り込まれていたのではないだろうか。
歴史上最も理不尽な出来事の一つとして数えられるホロコースト。それを許したのは人間の無関心であると語ったのはエリ・ヴィーゼルであるが、その彼は無関心を克服するのは記憶であるとも語った。主イエスはその生涯を通して幼子たちの犠牲を記憶し続けたのではないだろうか。
現代の「先進国」に生きる私たちの命も多くの幼子の犠牲の上に成り立っている。「なぜ私は今生かされているのか」という大きな問いかけの前に私たちも立たされているのだ。2004年最後の礼拝の時、大きな宿題、課題を受けたように思うのである。無関心という罪に支配されてしまう私たちである。その無関心が幼子の虐殺を容認し、主イエスを十字架につけたのだ。そのことを告白せざるをえない。
クリスマスの後の出来事、それはまさに今もなお繰り返し起こっている。私たちはそれを記憶する事が求められる。それは祈るということだ。祈りは関心を寄せる事に他ならないからだ。それがクリスマス後に生きる私たちの責任であり、主イエスに従う歩みである。既に闇に光が輝いていることを信じて。