「真の平和」 ルカ福音書12章49-56節 |
しかし、福音書を読むと、イエスの歩み、立場の選択は当時の宗教的エリート中心社会の中にあって、対立と分裂を引き起こしたことを語っている(ヨハネ7:40-44、9:16、10:19)イエスの周りには、価値観の違い、立場の選択の違いから、しばしば分裂や対立が起こっていたのである。そしてその対立は、イエスが貧しい人々、すなわち抑圧された人々の立場を選択することによって起こったことであり、イエスの登場は体制支持者たちにとって甚だ迷惑なものであった。それは彼らの都合のよい安定した「平和」な社会のバランスが壊されるのが目に見えたからである。
最近フランスで書かれた『茶色の朝』という本を読んだ。一言で言えばすべてが「茶色」になってしまう物語。ペット、新聞、ラジオ、本、競馬のレース、服装、政党の名前、そして「朝」までも・・・。語り部の「俺」は、最初は違和感を覚えながらも、結局「まあいいか」と考えることをやめてしまう。そして、そして本屋や図書館から批判的な本が強制撤去されるころには「茶色に守られた安心、それも悪くない」と「俺」は言う。
この本について哲学者の高橋哲也氏は「この『茶色の朝』が現代日本に生きる私たちとっても、決して無縁ではない」と呼びかけ、この国の状況も物事を「茶色」に染めていく傾向があることを指摘しておられる。
対立とか分裂というのは、誰にとっても居心地の悪いもの。だから出来るならそれを避けようとする。特に、現状にさほど不自由を感じない大多数の者は・・・「俺」だ。一度「茶色」にそまった平和や一致が出来上がると、正義を封じ、福音に生きようとするものを亡き者にしようとする。イエスの十字架はそれを証明している。イエスはこのような一致や平和を突き崩し、神の国の「正義と平和と喜び」(ローマ14:17)を実現させるためにこそ、その第一歩としての「対立」「分裂」の大切さを指摘したのである。それが「火」を投じることである。
「和を以って貴しとす。逆らうこと無きを宗とす」とは聖徳太子の17条憲法であるが、日本の精神風土を表した言葉だ。そしてこの国は国家という和を乱すことは許さないというように適用してきたし、適用しようとしている。それが日本の美学であるがごとく。そしてかの大戦において教会はまさに、「和」に絡めとられてしまった。その歴史に私たちは謙虚に学ぶ必要があるのだ。
カンバーランド日本中会は、1995年8月15日に「戦後50年にあたって」という決議文を公にした。そしてその中で信仰告白に基づいて「神が創造の業において、人々のために意図した基本的人間の尊厳を否定する政治的、経済的、文化的、人種的抑圧状況に反対し、抵抗し、変革を求めていきます」と決意を表している。私たちが本気でキリストの立たれたところに立ち、人の痛みを共感しつつ、愛と正義を求めて歩むとき、「茶色」にそまり行くこの国の中で、武力で「平和」を実現しようとするこの世界の中で分裂が起こるだろう。それが主の十字架に従う道であり、「真の平和」を求める歩みとなる。イエスの宣教した平和は「馴れ合いの」「見せかけの平和」ではない。徹底的に一番下に立って実現する平和である。巨大な力によって押さえつけられたところから求める「平和」である。私たちは、「武力による平和」というまやかしに二度と惑わされてはならない。