「天は神の栄光を物語り」 詩編19編1-15節 朝山正治牧師 |
ひび きはー ぜーんちに みーつー。
ハイドンのオラトリオ「創造」は、わたしが聞いた本格的な音楽の最初のものだったような気がする。といっても、「天は御神の栄光を語り、・・・」ではじまるほんのさわりの部分を聞いただけだ。戦時中の小学生が、新制中学の最初の一年生としてキリスト教の学校に入り、何年生のときかははっきりしないけれども、創部間もない合唱隊が文化祭か何かで歌うのを聞いた。「語らず言わずに、その響きは、全地に満つ。響きは、全地に満つ。」この部分は、詩も曲も、その場で覚えてしまったような気がしている。心に残る歌だった。詩編19の言葉だと知るのはずっと後のことだった。
毎朝礼拝があり、週に一度は聖書の授業があった。一年生から二年生になろうとする三月のイースターに洗礼を受けた。もちろん聖書はいくらも読んでいない。(でも、後年、その頃使っていた文語訳の新約聖書に連続して読んだことを示す赤い色鉛筆の線がいっぱい引いてあるのを見て、ほおっと思ったことはある。)聖書の理論も信仰の理屈も殆ど何も知らなかったけれども、いやあるいはそれだからこそ、「語らず言わずに」響いてくる言葉に心が振動したのかも知れない。クリスマスの羊飼いや東方の博士たちの物語を読んだりするときふと思い出するのである。しかし、それは、曖昧な情緒・感情に流されることとは区別されなければならない。
<話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。>(新共同訳)
声は聞こえなくても「その言葉は世界の果てに向かう」のである。「言葉」を聞く、聞き取るのである。そこに、証しがあり、宣教がある。歴史を切り開いて行く力がある。
それには、清く澄んだピュアな心と、義の感覚と、高く遠くを見る目線がなければならない。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」ある人が近頃目が全然見えなくなりましたと訴えるので、その方のメガネを取り息をかけ布で拭いて掛け直してあげた。「いかがですか」と訊くと、「あ、はっきりみえます」と言われた。清く澄んだ心がなければ、言葉は聞こえてこない。
イエスは、空の鳥、野の花を示し、人は何を食べようか何を着ようかと思い煩う必要はないのだ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と言っておられる。今この国の政治を見ると、義の感覚が著しく萎えていることが分かる。「国益」のためと言って大義のないブッシュの戦争に加担し、卑しい利権に与かるために「人道支援」を行うのである。このような政権を成り立たせるこの国の人々に、どうして義の感覚があると言えるだろうか。何よりもまず求めなければならないものが何であるかを真剣に捜し求めなければ、言葉は聞こえてこない。
いま求められるもう一つのことは、高く遠くを見る目線である。戦前戦後の歴史を振り返り、そこから未来に向けて遠くを見ようとする目線である。天から聞こえてくる物語を聞こうとする、高い心である。理想主義といってもいい。憲法九条を捨てる「現実主義」と、「憲法九条」を堅持し、これを実現(実質化)しようという「理想主義」と、どちらをあなたはとるか。高い心がなければ、天からの言葉は聞こえてこない。
きょうの詩は、次の祈りで結ばれている。
<どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。>