「行きなさい」 ルカ福音書10章1-11節 |
さてしかし、イエスは72人を遣わされるにあたり、「狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」と言われた。狼とはイスラエルにおいて、破壊をもたらす人間の象徴として受け止められていた。「また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利をえるために、血を流し、人々を殺す。また、預言者たちは、城壁に漆喰で上塗りをした。彼らは空しい幻を見、欺きの占いをし、主が語られないのに『主なる神はこう言われる』と言う。国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。」(エゼキエル22:27-29)。まさに現代を言い当てている。イラクの殺戮と混乱、キリスト教極右勢力の語る「正義の戦争」、テント村の弾圧、教師の不当処分、外国人締出し政策・・・。そのような中に遣わすからこそ「狼の群れに子羊を」と言われるのである。
しかし、驚くことにイエスは「財布も袋も履物も持っていくな」と言う。丸腰で行けということだ。もっと言えば自分を頼りにするなということだ。遣わした方を信頼せよ!ということだ。その中で出会うその一人一人の必要に向き合い、その出会いの中で神の国の支配を告げよ!というのである。ある意味で、これは非常に小さな働きである。しかし、これが私たち教会に委ねられている宣教なのだ。本当に混沌としている時代の中にあって、狼がうなりをあげている時代にあって、私たちは丸腰の何の力もないような者たちであるし、無力さ以外何も感じられない時がある。しかしなお「神の平和があるように」と祈り、弱った人をいやし、神の国は近づいたと宣教するのが教会の務めなのである。
神の平和(シャローム=傷のない状態)が崩壊している時代にあって、キリスト者は破れ口に立つ者なのである(エゼキエル22:30)。そこが私たちの遣わされる場所である。そして、神がこの社会の破れたところに立つ者を探しておられるである。シャロームが失われている場所にイエスは私たちを遣わされるのである。それはとりもなおさずイエスが行かれようとした町や村(場)なのである(1節)。そのことを覚えてこの週もそれぞれの場所に遣わされていきたい。