「求めなさい」 マタイ福音書7章7節 |
イエスは山上の説教の締めくくりに入るところで「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と言われる。山上の説教を読むと本当に神を信じる者には本当に新しい生き方ができるのだ、という感動を覚える。しかし、一方で私たちの現実に起こっていること、人間の矛盾と苦悩があらゆるところにある。山上の説教を通して語られる事柄と程遠い私たちの現実がある。山上の説教に生きようとすればするほど現実の壁にぶつかり、己の無力さにうちひしがれるのである。それならば「どうせ駄目」と最初から思った方が自分を納得させられる。「どうせ駄目」という言葉を私たちは、信仰生活においても使っているのではないだろうか。
イエスは山上の説教を最初からできない教えとして語られたのだろうか。人間の罪深さを指摘するために山上の説教をされたのだろうか。そうではないと思う。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」。私たち人間の能力とか資質には、山上の説教に生きられる可能性はまったくない。しかし、私たちを生かす神の側にその可能性があるのだ。だから神に祈り求めなさい。「人間にはできることではないが、神は何でもできる」からである。山上の説教の締めくくりで「求めなさい」ということは言い換えれば「神がおられることを忘れるな」ということ。人間の思いだけで判断するなということである。
そのことを親と子どもの譬えを通してイエスは教えられる。親は「良いもの」を与えるものである。それも「悪い者」でありながらも。それならば天の父が良いものを私たちにくださるに違いない、とイエスは言われる。ここで「パンと魚」が「良いもの」の譬えにもと用いられている。「パンと魚」は人間の命にかかわるもの。人間が人間として生きるうえで必要最低限の求めです。
命を神は与えてくださる。命を求めることをイエスは「良いもの」と言われているのではないだろうか。平行箇所のルカでは「良いもの」は「聖霊」になっている。聖霊を与えるということはまさに、創世記に記されるように、私たちに命の息が吹き入れられることである。イエスは、神の似姿として創造された人間の本来の姿を求めなさい。神に創造された人間の姿を取り戻しなさい。そのことを本気で求めなさいと言われているのではないだろうか。
私たちは現実の中で神を無き者にしてはいないだろうか。目の前に広がる現実に神が飲み込まれてはいないだろうか。「神様!」と叫び声をあげて行こうではないか。今こそ「御国を来たらせたまえ」と心から求める時だ。人間の命に必要な求めを遠慮せずに叫ぶ時である。神にはすでに私たちに与える準備がある、私たちは本気で求めていこう。
この節目の年、今一度、長く信仰生活を送っている者も、新たに加えられたものの、本当に「求めなさい」といってくださる方を信頼して歩みを新たにしていきたいものである。