「新しい掟」 ヨハネ福音書13章31-35節 |
34節から記される「新しい掟」の内容は非常に端的で、明確です。「互いに愛し合いなさい」。これは一つの共同体に語られた言葉です。弟子たちが互いに愛し合うということです。ヨハネ福音書を読んでいた、ヨハネの共同体がそこに集う人々が互いに愛し合うということ。そしてそれを今この時代に、私たちが教会という共同体の中で聞く言葉であるのです。その点で、新しい掟は、「敵をも愛しなさい」という教えに比べるとどこか内輪向けの教えだという思いになるかも知れません。しかし、35節を見ると、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることをみなが知るようになる」とあります。つまり、互いに愛し合うということは、主イエスの弟子であることを証しするということなのです。この新しい掟は、単に閉ざされた団結を促すのではなく、共同体内での愛の実現が外に向かって証という形で開かれていることが想定されているのです。
しかし、なぜこの「互いに愛し合いなさい」という掟が新しいのでしょうか。レビ記に記される「隣人愛」と呼ばれる教えは「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と言われています。隣人を愛する根拠は「自分を愛する」ということです。しかし、34節後半で主イエスは「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というのです。ここにこの掟の新しさがあるのです。新しいこの掟の相互愛は主イエスから出発するのです。ズンデルという人は「愛するとは、他者となること、他者のうちに住むことである。もはや自分自身ではなく、自分に属するのではなく、他者のものとなることである」と言います。「愛することは、他者となること」、まさにこのような愛を主イエスはあの十字架において指し示されたのです。そのような主イエスの歩みこそが「栄光を受けた」といわれる歩みにほかならないのです。
教会は、今この「愛の欠如」した世界にあって、「互いに愛し合う」ことを世に示さなければならないのです。人を蹴落とし、人の上に立つことをよしとする社会の中に合って仕えあうことにおいてこそ、本当に人としての自立が与えられ、生きる喜びが与えられることを指し示す務めが私たちに与えられているのです。「互いに愛し合う」という掟に基づいて共同体を作り上げていくことが私たちに委ねられているのです。
しかし、私たちは、自力でこのことをなすことは決して出来ません。それはペトロのこの後の姿を見れば明らかです。私たちは、ただただ「わたしが愛したように、あなたがたもたいがいに愛し合いなさい」と十字架において命をかけて表わしてくださった主イエスの言葉に、押し出されるだけなのです。わたしたちは、この主の言葉に押し出されてこの世の中で「互いに愛し合う」「互いに仕えあう」共同体を目指して歩む群れでありたいものです。