「聞き分ける羊」 ヨハネ福音書10章22-30節 |
先日、一通の手紙が私に届きました。手紙を下さった方は、大変大きな病気をされて、その後も薬の副作用などで本当に苦しい日々を送られたそうです。しかし、その手紙の中で訴えられていたのは、聖書を読み、インターネット等を通して聞く説教から「大丈夫!」というメッセージを受け取ったということです。自分の状態がどんなであろうと「大丈夫!」とその方は受け止めることができたと言われるのです。主イエスが私たちを知ってくださっている。詩編23編にあるように、それは、たとえ死の谷を歩むときも私たちはわざわいを恐れない!ということです。これはキリスト者にとって本当に力強い告白です。この告白は、信仰の極みです。何か頭で観念的に理解できる事柄ではないのです。この告白は手紙をくれた方のように言いようもない苦しみと痛みを通してこそ本物の告白として、信仰の力強い証になることを忘れてはなりません。私たちは、深い苦しみや悲しみのどん底に光を見出したときに、初めて「インマヌエル」という本当に本当に大きな恵みを味わい知るのです。
さて、今日のテキストをさらに読むと羊飼いに知られている羊は、羊飼いに従うと記されています。つまり、信仰は知られていると同時に「従う」という関係を含んでいるということです。ナチスによって投獄され、処刑されたボンヘッファー牧師は、服従なき恵みのことを「安価な恵み」と言います。それは十字架のない恵みであり、生きた・人となり給うイエス・キリスト不在の恵みであるというのです。彼の著書『キリストに従う』の第一章は「恵みと服従」となっています。恵みと服従!これこそ今日のテキストに記される羊飼いと羊の関係を端的に表わす言葉であると思います。主イエスに知られている「恵み」その知られている羊は、羊飼いに従う羊なのです。
キリストに従うということは、何か宗教的であったりすることではありません。キリストに従う者、すなわちキリスト者は、ボンヘッファーの言葉で言えば「この世の生活の中で神の苦しみに与ること」によってキリスト者となるのです。ボンヘッファーは、神の苦しみに与る中でこそ、キリスト者には深い深い慰めが与えられる、と言います。そして、そのことこそがキリスト者に与えられた「高価な恵み」であると言うのです。
私たちはよい羊飼いである主イエスの羊です。羊はその声を聞き分ける!その声とはあの弟子たちを招かれた言葉、「私に従いなさい」という声です。その招きの声が今まさに私たち一人一人に語られているのです。主の十字架への歩みに参与しなさいと一人一人がこの時代に招かれているのです。
私たちを招いてくださる方は、羊の為に命を捨ててくださる方なのです。そこに私たちが聞き従うべき根拠があるのです。その大きな恵み、揺るがない約束があるからこそ、今この時、私たちたちはその主に従う決断を促されているのです。退修会の最後に講師の森元さんが「隣りの人を愛する。一人一人がそのことに取り組めば少なくとも今の世の中よりもよくなるでしょう」と言われました。本当にそうです。私たちは、小さな一つの決断へと促されているのです。愛せないものが愛そうと決断する。従い得ない者が従おうと決断する。その繰り返しが私たちの信仰の人生ではないでしょうか。それは本当に小さな一歩です。しかし、その小さな一歩を通してわたしたちは、羊飼いの声を聞き分け、その羊飼いの後に従う羊としての歩みが導かれるのではないでしょうか。小さな決断をするこの週の歩みでありたいものです。