「金銀は我にないが」 使徒言行録3章1-10節 |
ペトロは「美しい門」の側で施しを乞うてきた足が生まれつき不自由な男に語りかけた。ペトロたちにも金や銀はなかった。だけども、持っているものがある!「ナザレの人イエス・キリスト」を私たちは持っている。その「わたしたちを見なさい」。
今日の箇所は、足の不自由な男が歩き出すという奇跡に目が留まるが、それよりも前にペトロが「わたしたちを見なさい」と言う姿は、イエスを裏切り、三度主を否んだあのペトロと同じなのかと驚く。
「わたしたちを見なさい」とペトロが言ったのは、ペトロたちが立派だから、偉いからということではない。むしろ逆である。使徒言行録をルカ福音書の続編として読むならば、第1巻にはペトロたちの弱い姿がはっきりと書かれているし、つい先日まで人々を恐れて閉じこもっていた様子が描かれている。その「わたしたち」が今は復活の主、イエス・キリストによって立ち上がらされた。その「わたしたちをしっかりと見なさい」とペトロは言ったのである。金や銀など見せびらかす、輝かしいものなど私たちにはない。ただ、ナザレの人イエス・キリストの名だけが私たちを生かしてくれている。それをあなたにもあげよう。そう言って、ペトロは彼の右手を取り、男を立ち上がらせたのだ。
「ナザレの人イエス・キリストの名」には、このように人を立ち上がらせる力がある!使徒言行録は私たちに告げているのだ。しかし、人々は「驚き怪しんだ」(口語訳10節)。それは私たちの反応でもある。私たちもしばしば「歩けない」経験をする。「足が痛くて歩けなくなった」と歳とともに弱る足を嘆く友がいる。今年も年間3万人を超える人が自らの命を絶ったと聞いた。「歩けなくなる」現実を思わされる。
そのような時、「立って、歩け」と言われても歩けない。その言葉は時としてナイフのような凶器とさえなる。しかし、ペトロたちが伝えた「ナザレの人イエス・キリストの名によって」という言葉は、何か上から下へ命じる言葉ではない。「ナザレの人」という言葉には「十字架の死」が意味されるのだ。あの十字架によって自らの力では歩くことのできない者の極みをイエス・キリストは経験された。
今日は、瀬底ノリ子先生が礼拝に来られているが、よく瀬底牧師が自己紹介をするときに「瀬戸際の瀬に、どん底の底と書いて瀬底」と言われていた。先生はその表現が聖書のメッセージを表しているようで好きだったと言っていた。人生の瀬戸際、どん底でこそ輝く希望がある。そういうメッセージだ。
ナザレのイエスはどん底を経験された方。そのお方を神はそのままにしておかれず復活させたのだ(2:24)。復活は一言で言えば神様の「大丈夫だ」という神の宣言である。
男は立ち上がらされた。これはまさに「復活」を意味するのだ。もはや自分の足で歩くことなど考えることもできなかった男に、「大丈夫だ。歩ける」という宣言がなされたのだ。今日、この朝の礼拝でその宣言はあなたに告げられている!「大丈夫だ!」