「イエス様のドラフト」_ルカ5:27-32 |
主イエスは「レビという町税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」。ここにある「見た」という小さな言葉は、ちらっと見るという意味ではなく、スカウトマンが関心を寄せる選手を長い時間かけてじっくり観察するのと同じ「見方」を意味する言葉だ。主イエスは徴税人のレビに関心を寄せ、神の国のドラフトに徴税人レビを指名したのだ。
ようこそ!!
記事ランキング
カテゴリ
全体 創世記 申命記 ヨブ記 ヨシュア記 ルツ記 サムエル記上 詩編 コヘレト イザヤ書 マタイ福音書 マルコ福音書 ルカ福音書 ヨハネ福音書 使徒言行録 ローマ コリントⅠ コリントⅡ ガラテヤ フィリピ テサロニケⅠ ヘブライ ヨハネ黙示録 Ⅰペトロ 未分類 外部リンク
タグ
2007年(51)
2008年(49) 2004年(39) 2005年(38) 2011年(38) 2010年(35) 2009年(31) 2012年(22) 2006年(16) 2013年(8) 2017年(7) 2006年(4) 2014(1) 以前の記事
2017年 07月 2017年 06月 2014年 12月 2013年 06月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 2004年 05月 2004年 04月 その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
2017年 06月 18日
高校時代の野球部の先輩は近鉄でプレーをした後、楽天のスカウトマンとなった。有望な選手を獲得するために全国を飛び回り、目をつけた選手の一挙手一投足に熱い視線を注いでいる。私たちのものの見方には色々あるが、期待を込めた「見方」がある。 主イエスは「レビという町税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」。ここにある「見た」という小さな言葉は、ちらっと見るという意味ではなく、スカウトマンが関心を寄せる選手を長い時間かけてじっくり観察するのと同じ「見方」を意味する言葉だ。主イエスは徴税人のレビに関心を寄せ、神の国のドラフトに徴税人レビを指名したのだ。 徴税人はユダヤ社会の中で最も嫌われていた存在の一つだ。支配国ローマの手下。異邦人と一緒に仕事をする「汚れた人」、そんなレッテルが徴税人たちにははられていた。徴税人とは食事の席を一緒にすることなど考えることはできない(30節)。収税所の前を通る時も、徴税人たちとは目を合わせないように通り過ぎたことだろう。民衆にしてみれば、徴税人はいいがかりをつけて金を巻き上げて行く「やくざ」のような存在でもあった。 しかし、主イエスは違った。徴税人のレビを直視し、そして神の国の働きに加わるように弟子としてお招きになったのだ。当時の世の中の基準、常識で考えると選ばれる可能性がない者が選ばれた。ここに主の驚くべき選びがある。 レビはこの主イエスの招きが本当に嬉しかった。だから「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(29節)。レビはこの時、主イエスは自分に関心を寄せてくれていることが瞬時に分かったのだと思う。本気で自分を信頼し、招いてくれていることが分かったのだ。「立ち上がった」は「復活」を意味する言葉でもある。レビは主イエスの招きによって新しい命を得たのだ。 野村克也元監督は他球団で切り捨てられた選手を「再生」させる名人だった。野村さんは「人間再生の極意とは、一つの言葉と本人の気づきである。それだけで人は変わる」と著書に記している。レビは「わたしに従いなさい」という主イエスの一言で気がついたのだと思う。収税所に座っている人生でははく、立ち上がり、キリストと共に生きる人生にこそ意味があるのだと。 私たちの社会も様々な「常識」、「基準」があり、特定の価値観が「律法」のようになっている。エリートたちが「自分たちが基準」と考え、それ以外の人たちを見下し、馬鹿にする構造はイエス様の時代と今も同じだ。イエス様は、エリートたちからは白い目で見られ、馬鹿にされ「罪人」と見られていたレビを選ばれ指名された! 自らを自負する者たちはファリサイ派の人々がそうであったように主イエスの招きを喜びの招きとして受け止めることができない。この主イエスの招きこそがすべてであると受け止めた人だ。漁師だったペトロたちもそうだった。彼らも何もかも捨てて主イエスに従ったのだ。 この主イエスのまなざしと招きは今も私たちの人生に与えられている。私たちは立派だからイエス様に招かれたのではない。ただ主イエスの恵みの選びに他らない。私たちもそのご指名をありがたく受け止めよう。そこに私たちの命と喜びがある。
by nozomichurch
| 2017-06-18 10:30
| ルカ福音書
|
ファン申請 |
||