「わが息子、わが娘」Ⅱコリント6:14-7:1 |
パウロがコリント教会の人々に対して「神殿」の比喩を用いたのには深い意味があったのだと思う。コリントは人口60万人の大都市であり、文化の中心地、国際商業として大変栄えた町だが、この町の山の上に子孫繁栄と豊穣の女神アフロディテを祀る「アフロディテ神殿」があった。お金と性という人間の欲望を刺激し、それを「満たす」のが女神アフロディテであり、この神殿の思想や習慣、そして価値観がコリントに住む人々にしみ込んでいたと言われる。
だからコリントに住む誰もが「神殿」という言葉を聞けば山の上に聳えるアフロディテ神殿を思い浮かべたに違いない。そのようなコリントに住むキリスト者たちに向かって語られた「わたしたちは生ける神の神殿なのです」とのパウロの言葉は特別な意味を持ってコリント教会の人々に響いたことだろう。特にコリント教会の人々が「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」(Ⅰコリント1:28)であったとすれば、なおさらそうであったであろう。荘厳なアフロディテ神殿が「生ける神の神殿」なのではなく、社会的な地位もなく、教会内にも多くの問題を抱えているコリント教会の人々こそがそれなのだとパウロは語っているのである。
私たちはいったい何者であるのか。何に属している者なのかを受け止め直すとき、私たちの行動原理に変化が生じるものだ。高校生の頃、野球部の監督に「あなたたちはY校野球部の部員である。その自覚をもって常に行動するように」と耳にタコが出来るほど言われた。「悪」とまでいわなくても、周りの友人たちがしていても自分たちはしないということがあった。まして、私たちは今「わたしたちは生ける神の神殿なのです」、「わたしの息子、わたしの娘」と「全能の主」からの語りかけを聞いているのだ。
私たちの世界もまた「アフロディテ神殿」につらなる価値観、信仰が根深くある。富、豊かさを手にすることが人間の生きる意味であり、人生の成功であるかのような価値観である。その豊かさのためには、不法(不義とも訳せる)や、闇のようなこと、ベリアルよこしまな、悪魔的なことさえはばからない(高濃度に汚染された汚染水を薄めて海に流す計画など)。
イエス様は山上の説教の中で「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と教えておられる。
わたしたちはアフロディテの神殿ではない。富(マモン)の息子、娘ではない。「わたしの息子、娘となる」と呼びかけてくださる神の子である。