「必要は満たされる」 フィリピ4:15-23 |
パウロは援助を受けることに対して慎重であった人だ。それは援助を受けることによって生じる煩いを知っていたからだと思う。パウロは天幕を造りながら、なるべく負担をかけないように福音宣教に従事していたけども、「悪賢くて、あなたがたからだまし取った」(Ⅱコリント12:16)と中傷された経験もあった。だからパウロはお金や物のやり取りから距離を取っていたのだ。
そのパウロを唯一支え続けていたのがフィリピ教会であった。継続的に物を送り援助する間柄からもパウロとの深い信頼関係に結ばれていたことを知ることができる。パウロはこの手紙でフィリピの教会の友情と支援に感謝をしつつ、しかし直接的に「ありがとう」「本当に助かりました」「あなたたちの支援によって窮地をしのげました」と私たちが「援助」に際してよく使う言葉をパウロは使わない。パウロはその贈り物によって、「あなたがたの益となる豊かな実が結ばれた」ことを 喜んでいる。換言すれば、フィリピの人々が「天に宝を積んだ」ことを喜んでいるということだ。見るべきものをお互いが見ている関係から交わされた「聖なる感謝」である。パウロはフィリピの人たちのよい業が、神様に向けられたものとしてなされる時に、本当によい業になるということをここで述べているのだ。
フィリピ教会は決して有り余る中からパウロを支えたのではない(Ⅱコリ8:1参照)。しかし、彼らは「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン」というパウロの言葉に共に「アーメン」と応答する信仰に生きる人々であった。パウロは貧しさの中で、欠乏の中でも「神の栄光」のために仕えるフィリピ教会の必要を「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたの必要なものをすべて満たしてくださいます」と励ましている。
私たちはしばしば「必要を満たしてくださる」ということを「自分の願いを叶えてくださる」と置き換えて理解する。しかし、聖書の神様は、パウロが「わたしの神」と呼ぶ神は、決して自動販売機のように私たちの思い通りの商品を提供してくれる神ではない。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という主イエスのゲッセマネのスの祈りの通りである。
主イエスは御心の従って十字架の苦難を引き受けてくださった。しかし、それを突き抜けたところの「復活の出来事」があったのだ。パウロが「御自身の栄光の富」と言った神の偉大な御業が、力が明らかにされたのだ。キリストの十字架と復活の出来事があるからこそ、私たちは、容易に「アーメン」と応答できないような試練や困難においても、「キリスト・イエスによって」、「このお方を通して」(Ⅱコリ1:20)「アーメン」と言える。