「どんな手を使ってでも」 ルカ16:1-13 荒瀬牧彦牧師 |
「なんでよ!」と驚き呆れることが大切なのだと思う。その意外性が神の国の入り口である。一体なにを「賢い」と言っているのか。無駄遣いしていたことではない。そのことを主人は怒っている。しかし、危機に立たされてからの彼の行動は迅速だった。知恵を絞ってできることを考え、「友を作る」という最善の作戦に出た。主人はそういう行動を求めていたのだ。そこに神のこころが見えてくる。
私の人生について「お前について聞いていることがあるかどうなのか。報告を出しなさい」といわれたらどうしようか。どうしようもない。ごまかせない過去がある。でも、神は私が「もうだめだ」と無気力や自暴自棄に陥ることを望んでいるのではない。「どうなのか」とは、おのれの危機を知って、真剣に救いの道を求めるようになるための迫りだ。全力を尽くしての求道を、祈りを、求めているのだ。
ゴルゴダの丘でイエス様の十字架の右と左にかけられていた二人の犯罪人のうちの一人を思い起こす。一人はやけくそになってイエスを罵っていたが、もう一人はイエスが正しい人であることを告白し、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのだ。すると、主イエスは彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。あの男は、人生最後の限られた時間の中で最善のことをしたのだ。瀬戸際にいたが、しかし自分の人生を投げてはいなかったのだ。そして、それこそ主なる神が罪人に求めていたことであった。
あの犯罪人は、主人の証書を書き換えた不正な管理人よりもすごいことをした。イエスという「友」を作ったのである。この友は、自分の担う十字架において、あなたの罪を問う「証書を破棄」(コロサイ書)してくださる御方である。なぜあなたは、あの管理人のようにどんな手を使ってでもその友を得ようとしないのか。そうこの譬えが問いかけてくる。神は御自分のもっとも大切な独り子を、この世に送り給うた。あなたにその独り子を、どんな手を使ってでも受け取ってほしいのだ。
以上が、譬えそのものからの使信。譬えの後に添えられた教えについてもごく簡単に述べると、「小さな事」と「不正にまみれた富」と「他人のもの」は同じことで、これらは「富」(お金)をさす。これに対して、「大きな事」=「本当に価値あるもの」=「あなたがたのもの」であり、これは神の国、神の御業をさす。大きな事を求める者は小さな事にも忠実でなければならない。あの譬えで主人がほめたことを思い起こそう。その賢さは、富という目に見える財産を、友との関係という目に見えない財産に転換したことである。お金を神のごとくあがめるところでは、富は人間同士を分断し争わせるものだ。しかし「大きな事」のもとに「小さな事」と相対化するとき、お金は友だちを作る(人と人とをつなぎあわせ、助け合う関係を作る)ことに用いることができるのだ。光の子たちよ、賢くあれ!