「まさかわたしでは」 マタイ26:17-35 |
しかし、この食卓に激震が走った。「はっきり言っておく。あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている」(21節)と主イエスが弟子の裏切りを告げられたのだ。弟子たちは突然の宣告に「非常に心を痛め」、代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの反応には「わたしは違います」と言い切れない弟子たちの複雑な心境がよく現れている。ユダも他の弟子たちもみな「まさかわたしのことでは」と言うのだ。しかし、一点だけ違った。ユダにとってすでにイエスは「主」ではなく「先生」にすぎなかったのだ。
主イエスは「罪が赦されるように、多くの人のためにながされるわたしの血」を「皆、この杯から飲みなさい」と弟子たちを招かれた。「皆」である。主は裏切るユダも招いておられた。イエス様は最後の最後まで待っておられたのだ。「人の子を裏切るその者は不幸だ」と主は言われたがこれは決して呪いの言葉ではない。「ウーアイ」。呻きを現わす言葉だ。「あー、なぜだ。わたしを離れては生きることはできない。わたしを離れては生きることはできないのだ」。そのような悔い改めを迫るギリギリの招きの言葉ではないか。
すべての弟子たちがそうであったように、私たちは誰もが「まさかわたしでは」という弱さやもろさを抱えている者たちだ。ペトロは「わたしは決してつまずきません」と言い放った。しかし、それが「決して」ではなかったことを私たちは知っている。私などは自分の経験から「絶対に」と強調する時はしばしば虚勢を張る場面が多いことを思う。この時のペトロは「まさかわたしでは」という揺らぎを必死に隠すために「決して」と繰り返し口にしたように思う。
信仰とは「わたしは決して、絶対に主を拒むようなことはしない」という自分の確信や、自分の強さにより頼むことではない。「まさかわたしでは」と崩れ折れやすい、弱い自分を認め、しかしなおその弱い者を主が支え、招き、執り成し、助けて下さる主の御手により頼むこと。それが「信仰」なのだ。
恩師の関田寛雄先生がよく「キリスト者は破れ提灯であれ」と言われた。自らの破れを通してこそキリストの愛が、キリストの赦しが、キリストの光が漏れ出してくる。自らの弱さを自分で覆い隠すことは、キリストの光を覆うことであり、キリストを信頼していないことだ、と。
ユダは「罪を赦すために血を流される」主の愛に信頼できなかった。自らの罪を、弱さを自分で解決しようとしてしまった。ペトロも三度主を拒んだ。しかし、ガリラヤ湖で復活の主に出会い、「わたしに従いなさい」と再び献身を促されたのだ。私たちも、「わたしでは」という弱さを抱えながらも、なお「主よ」と告白する者として、ここからもう一度新しく歩み始めることができるのだ。