「キリストに出会う時」 マタイ25:31-46 |
今年最初の礼拝にマタイ25章31節以下が与えられたが、「次の道」を見い出せない私たちに神が主はどこにおられるか、主はどのようなお方かということを、これ以上ない形ではっきりと示されていると思う。主イエスははっきりと「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)と言われた。飢え渇いている人、泊るところがなく彷徨っている旅人、服がない人、病気で苦しむ人、人権を無視され投獄されている人・・・・・・いうなればこの社会の中で圧倒的に弱い立場に追いやられている「小さい者」、この世で無価値とされている者、それゆえに後回しにされている人こそがご自分の兄弟であり、その人とご自分を同じにしているのである。
年末に家族で村山温泉に出かけたら、「知的しょうがい」の方が私たちに話しかけてきたような、独り言をいうような感じで、「景気が悪くて大変だよね。障害者は後回しだよ」と一言二言いって去って行った。「後回し」という言葉が頭から離れなかった。
福島から国分寺に避難してきた親子が東京と福島の地域性の違いに戸惑い、悩んでいるという話を教会の友から聞いた。まるで東京という「異国」で行き場がない旅人のようだ。
私たちはまたあたらしく始まったこの年に、色々な出会いを経験することだろう。特に「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」としてキリストが私たちに出会われることを年の初めに覚えよう。願わくは私たちは右側の者でありたいと思う。だけども多くの時に左側のようなものになっている。私もこの個所を読むたびに自分が「最も小さな者にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」という左側の者たちにかけられた言葉が胸にささる。そういう自覚があるからだ。
でも、御言葉を胸に刻んで、次の道に踏み出すことが私たちはできる。もちろんできること、できないことが私たちにはある。私たちがマザー・テレサのように極貧の中で苦しむ人に寄り添い、生きることが出来るわけでもない。それでも、私たちが出会う一人一人の出会いの中でキリストと出会う時がある。私たちのそれぞれの歩みの中にある小さな出会い、小さな業を主イエス様は確かに御覧になり、覚えておられるのだ。100人、10人ではない。「この最も小さな者の一人」とのかかわりを大事に、大切にする年にしたい。