「苦難の後で」マタイ24:15-31 |
主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と従ってくる弟子たちに殉教の覚悟を求められた方だ。しかし、今日の個所では「逃げなさい」と言われている。しかも、財産や着る物など気にせずに一目散に逃げるようにと命じられている。
マタイ福音書の最初の「読者」たちは、イエス様が語られたことを読みながら自分たちの歴史的現実を思い巡らしたことだろう。ローマ軍との戦いで「信仰を守る」と徹底抗戦する者たちもいたが、圧倒的な軍事力を誇るローマ軍によってエルサレム神殿は破壊された。その中でキリスト者たちはユダヤ戦争勃発前にペレアという地に移ったと言われている。「聖なる場所」を捨てて逃げ出した「裏切り者」、「売国人」といった言葉がキリスト者たちに投げかけられたことだろう。
原発事故を経験する中で、子どもを連れて避難した牧師のお連れ合いが、逃げることのできない人を置き去りにして、自分は「逃げた」ことに非常な苦しみを経験したことをレポートされていた。パニックになり泣き叫ぶ時があった、と。そのような者たちに主イエスの「逃げなさい」という言葉は「救い」の言葉として響く。主イエスは、弟子たちが自分たちの力ではどうすることもできない「破壊者」に襲われる時がある。その時は「逃げよ」。
ローマの迫害の中で、墓場の中で身を隠しながら礼拝を守り続けていたキリスト者たちがいた。太陽も、月も、星も光を全く放たない暗黒がある。しかし、「そのとき」に「人の子の徴が天に現れる」のだ。逃げざるを得ず、絶望の暗黒を経験する時に再び来る主を見ることができる。キリストの弟子たちは四方に散らされるような経験をするけども、「そのとき」には「天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(31節)。それがいつかは分からない。しかし、完成において、確かに約束されていることを信じて、困難な時代の中で、まったく光を失うかのような中で、まったく光を失うかのような中で、なお主イエス・キリストを見つめつつ歩む。そこにキリスト者の希望があり、使命があるのだ。
先日100歳になった日野原さんは10年手帳を使っておられるという。10年後の予定も埋まっているというから驚く。そしてキリスト者である日野原さんは手帳に記される予定は単なる予定ではなく「神様との約束。言ってみればミッションである」と言われる。キリスト者とは10年どころか、「神の国の完成」を見据えて、今日を神様との約束、ミッションのとして生きる者に他ならない。アドベントを迎えた。主が再び来たもう完成の時を見据えて、生きる者たちであろう。