「神のものは神に」マタイ22:15-22 |
主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。納税のために使われていたデナリオン銀貨には「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カイサル」という銘が刻まれ、皇帝の像が刻まれていた。それは、その通貨を使う人々への皇帝の支配権を、否応なく刻みつけるためのものだ。その銀貨を前にして主イエスは先の答えを言われたのである。主イエスはここで納税の是非にこたえるようにして、皇帝は皇帝であって神ではないと言われているのだ。皇帝がどれほど強大な権力をもっているように見えても、デナリオン銀貨に銘と像を刻んで民衆を支配していると誇っていても、それは限定的な支配であり、すべてを支配しているのではない。
あなたたちとって何よりも大事な、重要な問題であることは「神のものは、神に返す」ということを忘れるな!あなたたちは天と地を創造された神を恐れて、その「神のものを神のかえす」このことをないがしろにするな!! そのことこそが決定的に重要なのだ。皇帝に対する。
「神のものを神に返す」ということはマタイ福音書を続けて読む私たちにとって「委ねられたぶどう園」のたとえとも響きあうように思う。神様が創造された天と地を「私たちのもの」としているところから「神に返す」。今、私たちはそのことが切実に問われている時代にキリスト者として生きていることを忘れてはならない。
また、「神のものを神に返す」という主イエスの言葉が創世記の創造物語と響き合うもう一つは、デナリオン銀貨に刻まれる皇帝の「肖像」という言葉と「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)の「かたどる」という言葉は同じことからも言える。つまり、デナリオン銀貨は、皇帝の肖像が刻まれているものだが、そのデナリオン銀貨を使うあなたは、「神の肖像」が刻まれたものだ! あなたがたはデナリオン銀貨に刻まれる皇帝に支配される者たちではない。あなたがたは天地を創造された主なる神の「肖像」が刻まれる者たち。あなたたちは皇帝のものではなく、神のものだ! 神の国に属する者だ!
私たちは世の王に、カイサルに属し、服する者ではない。日本という国に住んでいるが、私たちたちは、この国、まして天皇が私たちを支配しているのではないのだ。私たちが受ける洗礼は、まさに「あなたはわたしのものである」という消えることのない「肖像」を刻み込まれることなのだ。私たちは、キリスト者としてこの社会とかけ離れて、分離して生きるのではない。教会(神)のこと、政治(皇帝)のことと分離して生きるのではない。この地上において、神の国の一員として生きるのです。神の国は近づいた! 悔い改めて福音を信ぜよ!という主イエスの言葉に従って生きるのだ。それが「神のものを神に返す」私たちの生き方である。