「目が開きますように」 マタイ20:29-34 |
主イエスとの「出会い」というのは、逃してはいけない瞬間がある。「ここ」という時があるのだ。使徒言行録17章にはアテネの広場でパウロが説教をした時、ある人々はパウロの説教を聞いて、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。イエスを信じる決断を先延ばしにした。しかし、結局、いずれまた聞く時は訪れなかった。このようなことは私たちの中にもある。イエス・キリストとの出会いは、「ここ」という時を逃してはいけない。
二人の盲人と主イエスのとの出会いにおいて覚えたいもう一つは、主イエスは、叫ぶ者の声を聞き逃してしまわれる方ではないということだ。主イエスは嘆き悲しむ者の叫びを無視される方ではない! 「憐れんでください」(エレイソン)は、イスラエルの人々の信仰の中で、神にしか頼るものがない信仰者が苦難の中から発する切実な祈りの言葉であった。「主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます」(詩編6:3)。
主イエスの周りに多くの人々はその叫びをかき消し、無視しようとした。しかし、主イエスにはその声が届いている。そして主イエスは、足を止められるのだ。なぜなら、主イエスは「追い使う者のゆえに叫ぶ、彼らの叫び声を聞」かれる神の子であり(出エジプト3:7以下)、憐れみ深い方だからである。叫ぶ声に足を止めてくださる方がいる! だから私たちは叫ぶことができる。叫びがさえぎられているように思う時も、「ますます叫ぶ」のだ。
足を止められた主イエスは、「何をして欲しいのか」と二人に問いかけた。ヤコブとヨハネの母親の願いから始まった前段の物語と同じ質問がここで繰り返さている。弟子たちは盲人ではなかった。しかし、彼らは自分勝手な願いをし、主イエスの進まれていた十字架への道は見えてはなかった。それに対して盲人の二人は「主よ、目を開いていただきたいのです」と答えた。そして目を開かれ、「イエスに従った」。彼らこそイエスの歩む道を見出し、それに従った! 「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」(イザヤ43:18-19)。
十字架へ進むメシアは「人の心に浮かびもしなかったこと」であり、それは「隠されていた、神秘としての神の知恵」なのである。この神の業を見るには、二人の盲人が願ったように、「主よ、目を開いて欲しいのです」と祈るかない。私たちも弟子たちのように十字架ではなく、この世の争いやに目を奪われている者だ。だからこそ、主イエスに触れていただいて、目を開いていただかなければなりません。十字架へ進まれる主に従うことこそ、主の弟子の道なのだから。