「実をさがす主イエス」 マタイ21:18-22 |
さて、この献堂記念に与えられた御言葉は「いちじくの木を呪う」と小見出しが付けられている個所だ。漢字は似ているが、「祝い」の日に「呪い」の記事が与えられるとは。しかし、マタイ福音書を読み進めてきた私たちに神様から与えられた御言葉として傾聴しなければならない。
空腹の主イエスが、道端にあるいちじくの木に目を留められる。実がなっていると期待して近づいてみると「葉のほかは何もなかった」(19節)。失望した主イエスは「お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、というのである。
これは単なる「いちじくの木」の話ではない。「朝早く、都に帰る途中」とあるが、「エルサレムの深みに漕ぎだす」という意味だ。いよいよ主イエスがエルサレムの深みに漕ぎされる。荘厳なエルサレムの都では、外側はにぎわいと繁栄があるものの、愛や正義という主が期待される実がそこにはなかった。そのこと実態と道端で葉だけを生い茂らせているいちじくの木が重ねあわされているのだ。
今の時代はどうだろうか。献堂47年を迎え、この日の礼拝に集う私たちの教会はどうだろうか。私たち一人一人はどうだろうか? 切実な問いとして、迫ってくる。「献堂47年」。この地に会堂が与えられた1964年は東京オリンピック、新幹線が開通した年として「記念誌」などに記されている。しかし「3.11」を経験した今、私たちの根本が問われている時であろう。
当時のエルサレム神殿の中枢にいた人々は、自分たちはすごい「実」を付けていると自負していた。しかし、主イエスの目にはそれが「葉のほかは何もなかった」と言わせることだ。その意味するところは、「実」つける可能性は、人間の側にはないということだと思う。それが「的外れ」の私たちの現実のように思う。だからこそ、私たちのあらゆる行為、いや私たちには「イエス・キリストの十字架の贖い」、私たちの罪を主イエスが背負ってくださったという、「あの出来事」を必要としているし、主イエスを離れて私たちは真実に生きることはできないのだ。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)。
主イエスは最後に「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(22節)と言われた。これは「実」を結ぶ可能性などないような私たち――それはまさに動かぬ山のようなもの――にも、主イエスにつながるがゆえに、実を結ぶことができる! という励ましであり、祈りである。愛の実を求めて、祈り群れでありたいし、そのことに献身を新しくする今日この日であるように。