「のぞみを失わず」Ⅱコリント4:1-18 |
主イエスは山上の説教の最後に「家と土台」の話をされた。岩を土台にした家と、砂地を土台にした家では、平時はその違いが分からなくても、嵐に見舞われた日にはっきりと違いが明らかになる。それと同じように、主イエスの御言葉を聞き、それを行うか否か。その違いが「雨が降り、川があふれ、風が吹く」という嵐の日に、キリスト者、そして教会の土台が顕わにされるということだ。
これはのぞみ教会の最初の礼拝で読まれた聖書の御言葉だ。50年前に礼拝をささげた人たちがどういう姿勢を中心にすえようと願ったのかが伝わってくる。教会を形作る上での土台をどうするのか。牧師も信徒も何より主イエスの言葉を真剣に聞きそれを行う。そういう礼拝をささげよう。そのような教会を形作ろう! 50年の時を越えて祈りの言葉が聞こえてくるように思う。
「聞いて行う」ということは、直ちに「出来るか出来ないか」が問われるのではない。むしろイエスの言葉を「真に受けるかどうか」が問われるということだと思う。「イエス様が言うならそうしてみよう!」。ある意味ではとても単純なことだ。そして教会というのは、主イエスの言葉を「真に受けた者」たちによって作られるし、「真に受けない」ところには、その神の言葉の出来事は始まらない。弟子たちは「わたしに従いなさい」という招きを「真に受けて」ペトロたちは網を捨てて、すぐに従ったのだ。
私たちの教会の名付け親と言えるパウロもそうだ。パウロはユダヤ教の枠組みの中で生きていれば、その中で生きることができた人だ。しかし、ダマスコ途上で復活に主の声をかけられた。そしてそれを真に受けて改心し迫害者からキリストを伝える人になってしまった。主イエスの言葉を真に受ける人間が教会には必要なのだ。
パウロは「生きる望みさえ失ってしまった」(1:8)と告白する中で、なお「途方に暮れても失望しない」(4:8)と語り得た。それは、彼に人一倍の忍耐力があったからということではない。パウロは生きる望みを失うような絶望を経験する中で、そこに十字架のイエスおられるという「希望」に出会ったからに他ならない。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び絶命した主イエスは、十字架の死を通して私たちの「どん底」に共にいてくださる。どん底が支えられる経験こそが、十字架と復活の経験なのだ。パウロはそのことが「神の栄光」、「偉大な力」、「宝」として「土の器」にすぎない私たちに与えられていると言うのである。
私たちが50年まもり続けている礼拝は、まさにこの「のぞみ」を、復活の希望を覚える営みに他ならない。どん底の「のぞみ」を証しする教会として「のぞみを失わず」岩の上に教会を建て上げて行こう。主イエスの言葉を真に受けて!