「福音を宣べ伝える」マルコ16:14-18 |
もう一つは、どの方も人との出会いを通して信仰に導かれたということだ。だれ一人として、一人で聖書を読み、一人で祈り、一人で神を信じたという人はおられなかった。親が教会に通っていた。友達に誘われて。入院した時、隣の人が聖書を読んでいたのが心に残ったなど、信仰に導かれるまでに必ず誰かとの「出会い」があったことが証しされていた。
神様は、しばしば人々をキリストへ導くのに人を用いられる。もちろん、啓示的な出来事というのもある。そのような働きかけも神様の御業としてある。しかし、私たちの仲間が証しし経験したことは、人が用いられたということだ。このことが意味する大切なことは、私たち一人一人がまたキリストを指し示す者として神様に用いられるということだ。
イエス様は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに命じられた。これが今年の私たちの主題聖句である。教会(エクレシア)、すなわち神様に名前を呼ばれる者たちは、同時に遣わされる者たちなのである。招詞ではじまり、派遣と祝福で終わる礼拝はそのことを意味している。
イエス様は「全世界に出て行け」と弟子たちに命じられている。ここから海外へ遣わされる宣教師の方々いる。私たちの教会はそのような召しを受け止めた宣教師の先生方に支えられてきた教会だ。今も石塚先生や佐藤先生のように海外へ遣わされる牧師もいる。
しかし、「全世界に行け」というイエス様の命令は、特別に選ばれた人や、宣教師の召しを受ける人にかかわることではない。イエス様はこのことを11人の弟子たち全員に言われている。イエス様は、このことを弟子の一部の人に語ったのではなく、すべての弟子たちにお命じになっているのだ。「全世界」というのは、私たちがまだ知らない地であり、同時に私たちが今生きている場所ということだ。私たちには、私たち一人一人に与えられる固有の人との「出会い」があるのだ。
私たちは今という時代の中にあって、本当に一人一人の人間の存在が尊い存在であることを伝える使命がある。一人一人がこの社会の価値観の中で能力があるとか、役に立つとか、立派であるとか、そのような価値基準ではなく、イエス・キリストが命をかけて愛を注がれている存在であることを伝える使命である!
私たちは「不信仰とかたくなな心」を持つ者たちにもかかわらず、主の召しが、主の愛が、私たちをただ遣わし、動かすのだ。私たち一人一人が、今一度、この主の呼びかけに応えて、そして、神の愛をこの時代に、この地に証しするために遣わされていこう。