「わたしを何者と言うのか」マタイ16:13-20 |
しかし、イエスがペトロに天の鍵を渡した場所はフィリポ・カイサリア。時の中心地エルサレムからもっとも辺境の地。しかも大工あがりの男が、漁師出身の男へ「天国の鍵」を渡したのだ。そのことを忘れてはならない。本来、この天国の鍵の授与は、自分たちこそ天国の鍵を管理していると豪語していた律法学者たちに抗して、まさに「わたしの教会」に天の国の鍵が授けられているのだという宣言だったに違いない。しかし、教会はその歴史の中で権力と結びつき、力を持った。そこに「わたしの教会」からのずれが生じたと言わざるを得ない。
キリスト告白は決して口先で終わることを許さない。自分の都合のよい告白も許さない。それはこの後に続く、イエスとペトロのやり取りを見れば分かる(21節以下)。
神学生時代の夏期伝道実習でお世話になった喜界教会の丸山牧師を思い出す。1985年、人口1万人に満たない小さな南の島に、「象のオリ」(OTHレーダー基地=自衛隊の巨大円形通信施設)の建設計画が浮上し、島の農民たちは先祖伝来の土地を奪い取られる危機、平和を奪い取られる危機、自然を破壊される危機に直面した。丸山牧師は農民たちから涙ながらに「一緒に闘って欲しい」と懇願された。だが先生は最初断ることを決心したという。なぜなら、島の小さな教会の財政のほとんどは建設を推進する市役所に貸している駐車場代とその市役所に勤める人の献金によって支えられていたからだ。先生が反対すれば今までどおり教会は運営できなくなることは目に見えていたからだ。しかし、ローマ書から主日の説教を準備している時、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が先生の胸をえぐったという。そして「自分の目の前で泣き崩れる農民を見殺しにして自分はこの御言葉を語れない」と強く示され、先生は、農民たちと共に闘うことを決意された。予想通りに市役所は契約を打ち切り、人も去って行った。しかし、「わたしの教会」はそこにあり続けている。
「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白は、悲しみ泣く者に奉仕することによって主の歩みに従うという一つの行動を求めるのだ。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)。
来主日に私たちは献堂41周年記念礼拝を守る。この時、のぞみ教会が委ねられている務めの重さを覚えたい。「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白に真剣に生きる教会、その告白に生きる一人一人でありたいと願う。