奨励「育てられる祈り」フィリピ2:12-16 小峰慶太長老 |
以前から、口語訳でこの箇所が心に留まっていた。口語訳2-13「あなたがたのうちに働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らされるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」この一文のみを都合よく捉えるならば、自分の祈っている事が全て御心にかなって実現するなんて素晴らしい、と解釈しがちである。肉の欲から来るものも御心と勘違いし、実現しないとどうして?と神を責めてしまうことに陥り易い。本来は 共同訳の「御心のままに望ませ」、口語訳の「願い」とは、救いを求め、達成するよう、神に近づき従っていく志を立てる、の意味である。自分だけの力ではこのような思いに至らず、祈りに向かうこともできない。
しかし、神様は、ご計画を持って、先ずは祈らなければ状況に私たちを置かれると思う。最初から崇高な、レベルの高い祈りが求められているのではなく、単純に「神様、助けて下さい」という状況が与えられ、成長の機会とされるのではないか。私にも、生死に関わる事祈りがあった。一つは自身の海難事故で、溺れ死にそうになった中での祈りであり、もう一つは危篤状態に陥った弟の病に直面した家族の祈りであった。癒しを求める叫びのような祈りから、状況は好転しない中でも癒しの確信と病院の全ての患者と医師/看護士の働きに対するとりなしの祈りへと日々導かれていった。祈りによる成長があった。
私自身も、長老となってとりなしの祈りをする機会が必然的に増えた。祈るべき事柄が与えられ、祈りに神様がどのように答えていかれるかに目を留めるようになった。祈りによって、育てられていると感じる。2:12-13には「救いの達成に努めなさい」とある。このような志を立てるというと大層だが、「神様、そばにいてください」、と望み、祈り、近づくことだけで、神様はよしとされるのではないだろうか。幼子のように「アバ、父よ」と心から神様を慕っていく祈りは、間違いなく救いの達成へと道かれるであろう。
2:16において、「走った、労苦した」と告げるパウロ。何につき動かされていたのだろうか。
2:13の「望み」、志 そのものである。「御心のままに望ませ、行わせておられた」神様の業がある。
この教会にもこうした、「望み」、志が起こされている。溝口長老が奨励の中で話された「教会を元気にしようよ」ということもわれわれの志の大切な一つである。私たちが祈るとき、神様は既に働いておられる。祈りを重ねる毎に、私たちは心の願いを吟味し、応答として与えられたvisionにしなやかに従い、その実現を待ち続ける者となりたい。