「人に仕える」Ⅰコリント3:1-9 香月茂牧師 |
パウロは、ここで歯に衣を着せぬ言い方でコリントの教会の人たちにはっきりと言っています。あなたがたは相変わらず肉の人だ、ときつい言葉を浴びせています。パウロは第2回目の伝道旅行でコリントの町を訪れ、伝道しました。(使徒言行録18章)そして、この町でも信仰者が起こされて教会が建てられていきました。その4年後位にこの手紙を書いているのです。しかしパウロは教会の人たちに対して、あなたがたは乳飲み子同然であり、肉の人だというのです。その理由として、あなたがたの間でねたみや争いが絶えないからだと。彼らは「私はパウロにつく」とか「アポロにつく」と争っていました。パウロは、教会の分裂の危機があり、人間を中心とした教会、グループ化してしまう恐れを感じたのでしょう。そこで、パウロは「アポロは何者なのか、パウロは何者なのか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と言っています。
当時の人々は、人に仕えることを嫌いました。それは奴隷の仕事だったからです。自分は奴隷ではない、そうした一種のプライドがありました。そうした中でも人に仕えることで、ある価値を見出し、そうしようとしたのは、仕える相手を選ぶことでした。それは偉大な教師とか、勇壮な軍人に仕えることで、その奉仕を価値あるものと考えたのです。
主イエス様は十字架に掛かる前夜、弟子たちの足を洗うことによって、奴隷の仕事、仕えることの見本を示されました。それは、相手を価値があるからと選んでするのではなく、相手を愛して仕える歩みを示されたのです。奉仕は、その奉仕の業をもってその価値を計り、どっちが上だとか、下だとか言うものでありません。また奉仕をもって、その人にまた周りの人に自分の価値を計ってもらうためにするものでもありません。相手が偉い人だから、その人に仕えたら価値があるとか、その相手で奉仕の価値をはかるものではないのです。
パウロは言っています。「成長させて下さるのは、神様」だと。大事なのは、神様に仕えることです。パウロも、アポロも神様に仕える者であって、あなたがたにとって大事なことは、神様に仕え、そして隣人に仕えることだと教えているのです。
映画では、相手が仕えるのに相応しい人だから仕えるというのではなく、その人をその人として、神様によって生かされている人として、仕えているのです。私たちは、神様によって成長をあたえられるものです。神様によって成長していくように、神様に仕えつつ、隣人に仕える者となっていきましょう。