「大工の子イエス」マタイ13:53-58 |
私は何でも工夫して色々と作り出す大工さんをとても尊敬する。日本で大工と言えば大体木を素材することが多い。しかし、イエス様の時代のパレスチナ地方の大工というのは、木も家財道具を作る時などに扱ったが基本的には石が多かったそうだ。山から掘り起こしてきた大きな石の塊を、朝から晩まで切り分け、石の粉を吸いながら仕事をする。そのために肺を病むことが多かったとも言われる。そして農業が中心お社会の中で大工という職業は差別される対象でもあった。また「母親はマリアといい」という人々の言葉も、当時の男性中心社会の中では「父親がいない」という蔑みが込められた呼び方でもある。ナザレの人々はイエス様の「肩書き」の低さにつまずいたのだ。
しかし、どんな人よりも貧しく、飼い葉桶にお生まれになった主イエスは、ナザレ大工の息子と言われ、マリアの子と蔑まれ、そして十字架につけられた。その十字架において、人々は主イエスを侮辱し、あざわらった。「他人を救って、自分を救うことができない。イスラエルの王なら、十字架から降りてこい。神の力を我々に見せつけてみろ!! そうしたら信じてやろう!」と。「最大の恵みは最大のつまずきとなる」。クリスマスの恵みも、十字架の恵みも、復活の恵みも、私たちにとって最大のつまずきとなりえるのである。
聖書が私たちに語り告げることは、馬小屋で生れ、大工として生活し、そして神の国を宣教し、人を愛して抜き、十字架で嘲笑われて生涯をとじたこの方こそが神の御子であり、私たちの救い主であるということだ。徹底して、低みを生きぬいたこの方にこそ神の真の力が隠されている。このイエスの低い姿こそ、神の謙遜、神の真実の愛の現れなのである。この方を救い主として信じる受け入れ従うのか、彼につまずくのかが問いかけられているのである。もし私たちが主イエスに対して何か作り上げた理解を持っており、それに固執して離れないならば、それは「故郷」の人々と同じである。
メシアが生まれる場所を知っていたエルサレムの人は旅立つことをしなかった。「故郷」を離れて「ベツレヘム」へ、主がおられる所に旅だったものだけが主の降誕に立ち合い、喜びにあふれた。そしてイエス様のことを小さい頃から、またその素性さえよく知っていたナザレの村の人々は、新しくイエス様を受け入れることをしなかったために本当に理解することはできなかったのだ。
「理解する」とはアンダースタンド(下に立つ)。私たちは主イエスを理解したければ、イエス様の下に立たなければならない。何か私たちの前理解を持ってイエス様に向き合うことは、イエス様の上に立つことにほかならない。主イエスから私たちが新しく問われることが大切なのだ。ベツレヘムで幼子を礼拝した当方の博士たちは、何の権威もない乳飲み子にひれ伏した。赤子の下に立ったのだ。そして全く別の道を歩み出したのだ。今、私たちはクリスマスを祝い、そして今新しい年を迎えようとしている。この節目の時に、どこまでも低みに立たれた御子を心に迎えよう。