「畑の中の宝」マタイ13:44-52 |
よく知られている徴税人ザアカイの物語。ザアカイはエリコの町に来たイエス様に会うために「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(ルカ19:4)。ザアカイが一所懸命先回りしているように思う。しかし、イエス様はあらかじめザアカイの家に泊まることになっていることを告げられた。それはザアカイにとって、そしてイエス様の行動に疑問をもった人々にとってそれは「予期しない出来事」であった。ザアカイは「急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた」。ここに一人の人の救いの出来事があったのだ。
神の救いの出来事は恵みとして私たちに与えられる。もし、恵みが私たちの期待通りに得られたとしたら、それはもはや恵みではない。神の恵みは私たちの予想を越えるから恵みなのだ。罪の赦しもそうだ。赦されないものが赦される。だから恵みなのだ。
この予期せぬ「宝」と出会った者はとっても喜び、そして全力を尽くしてこれを得ようとする。畑の中に宝を見つけた者も、高価な一つの真珠に出会った人も、「持ち物をすっかり売り払って・・・・・・・買う」という行動に出たことだ。「持ち物をすっかり売り払う」こと、つまり、自分が持っているもの、自分が抱えているもの、それを手放さない限り、この宝は手に入らないということだ。言い換えればイエス様という宝に出会った人は、今まで抱えている自分を手放し、新しくキリストに従って生きる歩みへ転換するということだ。網を捨てたペトロも、ファリサイ派のファリサイ派であったパウロも、イエス・キリストと出会い「すっかり売り払」った人たちだ。
最近本屋に行くと整理整頓のコーナー「 断捨離」と銘打った本が多く目につく。要らない物を断ち、捨て、離れることを勧めている。それが出来ないからいつまでも部屋が片付かないばかりか、新しいものを手にすることも出来ないというのだ。キリストという宝も自分が抱えているものを「捨てなきゃ得られない」のである。
主イエスは「すべての民に与えられる大きな喜び」である。しかし、「すべての民」が主イエスを「宝」とすることが出来たかと言えばそうではなかった。それは人間にとっては予期しない形で表され、示されたからだ。馬小屋でお生まれになった主は、ザアカイのような「悪人の所に泊り」、最後は十字架で殺された予期せぬ、隠された宝だからだ。
しかし、この宝にきづいたものにとってはすべての持ち物をすっかりうりはらっても惜しくないほどの喜びなのである。神様がどれほどの宝を、高価な真珠を神様は私たちに贈ってくださったのか。アドベントのこの時、そのことを深く受け止め直す時を過ごそう。