「『先取り』の信仰」 マタイ7:7-12 |
改めて聖書を読んでみると「求めよ、探せ、叩け」という言葉には、「誰に何を求めるのか」、「何を探すのか」などが一切書かれていない(「門を」も原文にはない)。そして同じように「与えられる、見つかる、開かれるも」、何が与えられるとか、どうやってとかは何も記されていない。しかし、私たちは「求めよ、さらば与えられん」という言葉を「求めたもの=与えられるもの」と混同しているのではないか。
9節以下でイエス様は「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と言われている。良い物とは「ふさわしい物」という意味でもある。ここに今日の主の言葉の強調点がある。私たちが自己啓発言われるように求めるから何かを得ることができると言うことではなく、すでに神が良い物をくださる計画されているから、用意があるから、私たちはそれを求めるように呼びかけられているのだ。
預言者エレミヤは、たとえ現実はバビロン捕囚という暗黒が支配しているようにしか思えなくとも、なお神が立てた計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたが、わたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。私をたずね求めるならば見出し、心をつくしてわたしをもとめるなら、私に出会うであろう」(エレミヤ29:11以下)と語った。
リハビリテーションのある患者さんが、「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに/慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった。より偉大なことができるように 健康を求めたのに/より良きことができるようにと 病弱を与えられた。(中略)求めたものは 一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞きとどけられた」という詩を記している。
ゲッセマネの園で主イエスはこの杯を取りのけて欲しいと求めながら、「あなたの御心」を祈られた。十字架で絶望の叫びから復活あの朝へ。すべての人を贖い、救う御業が、将来と希望の計画があった!! 主イエスの十字架と復活が神の御心として起こった以上、私たちはもはや望みを捨て去ることは許されない。むしろ、私たちが「もうこれ以上はだめだ」と性急に判断してしまうことに、「ちょっと待って!」と言うことがゆるされている。天を仰ぐことがゆるされている。神の御心を求めること、探すこと、叩くことがゆるされている。神が「よい物を与えてくださるにちがいない」から。私たちはたとえ現実が闇のようであっても、神が良い物を与えてくださる。「将来と希望を与える」計画を備えていてくださる。だから主の十字架の復活の約束を信じるキリスト者は、感謝を先取りし、希望をもって祈り、生きることができる。