「姦淫するな」 マタイ福音書5章27-32節 |
ヨハネ福音書8章のいわゆる「姦淫の女の物語」はこのような当時の風潮をとてもよく表していると言える。「姦淫の現場」で取り押さえられたのは 女性だけだ。「現場」というからには、そこには相手の男性もいたはずだ。レビ記では「姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」とあるのに、ここで問題にされているのは女性だけだ。それが 当時としては当たり前だったのだ。
イエス様は姦淫罪が男にはほとんど問われず、女にだけ非常に厳しく問われる実情に疑問を投げかける。「おまえたち男どもは、誰でもみだらな思いで女を見ているではないか。そのことがもうすでに姦淫なのだ。そのお前たちが、どうして自分を棚に上げて女性の姦淫だけを咎めうるのか」。イエス様はそう問うているのだ。
離婚についての戒めもまた同じ構造を見ることができる。イエスは男たちの離婚手続きをめぐる男たちの身勝手な振る舞いが横行する中で、理不尽な理由を突きつけられて離縁され、不安定な「やもめ」の境遇におとしめられる女性たちの立場を守るためであって、原則的な離婚禁止を語っているのではない。
姦淫についての掟にしても、続く離婚についての新しい戒めにしても、そこには女性に責任や罪をなすりつけて、自らの行為を正当化しようとする男たちの責任転嫁の構造への激しい問いかけが満ちている。「責任転嫁」とはよく言ったもので、「責任を嫁に転ずる」と書く。聖書の昔の時代に限ったことではなく、現在においてもこのような弱いものに責任を転換してくような構造が私たちの中にもある。神学校時代に性的暴力を受けた女性の多くが「女性側にも落ち度があったのではないか。男を挑発するような服を着ていたのではないか」と言われた経験があると聞いたが、「責任転嫁」そのものである。
今日の箇所を本田神父「不倫は女性への人権侵害――見下げる思いからでる」と小見出しをつけている。「見下げる思い」とは、「殺すな」で読んだのと同じように、目の前にいる一人の人間を神に創造された創造された存在として受け止めないということに他ならない。イエス様が今日の箇所で言われたことは、「性」ということだけでなく、私たち一人ひとりが人間を人間として見ないことを厳しく問うているのだ。健やかに人間らしく歩みだしましょう!