「荒野からの叫び声」 マタイ福音書3章1-12節 |
私たちが聖書を読むということは、御言葉を聴くということはいつも耳に優しい言葉を聞くことではない。もちろん聖書には慰めに満ちた言葉があるし、私たちは聖書の言葉によって支えられ、癒されるということを経験する。しかし、神の言葉は生きて働く神の言葉であるがゆえに鋭く私たちの心に突き刺さってくるのである(へブライ4:12)。
ともすると私たちは自分たちにとって都合のよい言葉だけを聞こうとする。励ましの言葉、慰めの言葉はありがたく頂戴するが、裁きの言葉、戒めの言葉、勧めの言葉は、右から左に抜けていくか、「あの人に聞かせたいものだ!」と自分には関係のない言葉のように聞くことが自らの経験として思い当たることだ。しかし、好きな食べ物だけを食べ続けると健康な体に成長しないように、自分にとって都合のよい言葉だけを聞き続けるだけでは健康な信仰者に成長しない。もっと言えば、それは神の言葉を聞いたことにはならない。それはただ自分の好きな言葉を聞いただけであり、中心は「私」(=エゴ)である。
かつてナチスに抵抗したボンヘッファーは私たち人間には、神様が与えてくださる「恵み」を「安価な恵み/安っぽい恵み」に変えてしまう傾向があることを警告した。それは、悔い改めを抜きにした赦しであり、服従を抜きにした恵みのことである。つまり、私たちが自分自身の罪や悔い改めを棚上げしたまま、「気前のいい神様」を利用して、そこから自分に都合のよい形で、口先だけで獲得する「恵み」であり、赦しのことである。
ヨハネの元に来たファリサイ派やサドカイ派の人々がヨハネに厳しく言葉をかけられたのは、まさに「口先だけの悔い改め」を見抜かれたからであり、「悔い改め」という行為によって、自らの「正しさ」を誇ろうとする姿が見て取れたからである。
実はマタイ福音書は、ファリサイ派たちの姿を通して読者の教会、キリスト者に対してメッセージを発しているのだ。マタイが最初に読者として教会には、「キリスト教的特権主義」ないしは、イエス様によって救われたのだから、律法はもうどうでもいいと言い、「主よ、主よ」と熱狂的にはなるが「父の御心を行わない」者たちが教会の中にもいたのである。しかし、決してそうではないとマタイ福音書は語る(7:21を見よ!)。
私たちの信仰は、ヨハネの呼びかけに対して「悔い改め、正しくあろう」とする願いと、そうありえない自分の現実に打ちのめされながらも、本当に真剣に問いかけ時にこそ、初めて、主イエスが命をかけて与えてくださった赦しが「高価な恵み」として私たちに迫るのである。そのよき知らせを、恵みを軽んじてはならない。真剣に受け止めなくてはならないのである。ヨハネの叫びは、まさにそのところから発せられた「荒野の叫び」なのである。