「一粒の麦の恵み」 ヨハネ福音書12章20-33節 関伸子長老 |
わたしの母は18歳で洗礼を受けた。キリスト教に関心を持つきっかけとなったのは、母の兄が20歳の時に結核で病院に入院した後に天に召された時、病室の枕の下に置いてあった一冊の聖書。その直後大学の入学式で隣に座ったクラスメートから「一緒に教会に行かない?」と誘われ、次の週の日曜日から目白教会で礼拝に出席し、半年後に受洗した。母が家族の中で初めにキリスト者となり、その後、母親、兄弟とその家族が続いて受洗した。わたしが20歳で洗礼を受けた時に母は「娘達への自分の務めは終わった」と言った。
一粒の麦が地に蒔かれて、朽ち果て、その形を失うことによって、そこから新しい命が発芽し、成長し、60倍、100倍の実を結ぶ。ここに福音の生命力の根源、すなわち死を通して命に至る福音、失うことによって得る逆説的真理の世界の秘密が語られている。イエスの十字架の死は、文字通り地に落ちて死んだ一粒の麦だった。
この後イエスは、「自分の命(プシュケー)を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る」と言う。自分の個別的な命(プシュケー)に固執する者はそれを死に際して失うが、この世で自分の個別的な命を最優先しない者は、かえってその命を保ち、最終的には神が与える永遠の命(ゾーエー)の質へと開かれてゆく。「一粒の麦」の言葉は、生きることの意味を教えるもの。一粒の麦としてのイエスの死は、その後弟子たちにも大きな影響を与えた。わたしたちもまた、小さいながらも一粒の麦としてイエスに従って他者のために生きることへの呼びかけと招きである。
先週の日曜日、鈴木手似教職志願者の伝道師任職および宮井岳彦伝道師の教職者按手式が行われた。お二人とも大きな困難を乗り越えてこの日を迎え、イエスに従う兄弟たちの歩みが守り導かれていることを思い、大きな喜びがあった。
わたしは4月から日本聖書神学校本科2年生になる。神学校で学ぶ道が開けたのは自分の計画や設定ではない思いがけない道。それは示された道。召命観がいつも問われる。先日雑談の中で唐澤先生が「召し」とは神の愛と許しであると言われた。これからもこのことを問いながら、神と人とに仕える道が開かれることを願っている。
イエスの死により教会が生まれた。その教会はキリストに従う群れ。イエスに仕えるひとりひとりとして、自分のことに執着し過ぎず他者に仕え、より豊かな実をもたらす。わたしたちは、このような共同体に招かれている。
ひとりの力は小さいようだが、まずひとりから始めなければ何事もなされない。キリスト者は、また開拓者である。道のないところに新しい道をつける、その働きには大きな困難が伴うが、だれかがそれを始めなければならないのなら、わたしたちはあえて「一粒の麦」となる決意と勇気を持ちたいと思う。そこに、イエスに従う者の歩みがあり真の命に至る道が開かれることを主イエスは、今ここで約束してくださる。