「ともし火がついていた」 使徒言行録20章1-12節 召天者記念礼拝 |
使徒言行録20章にはトロアスの礼拝堂の三階からエウティコとうい青年が転落死するという出来事が記されている。この記事は、パウロの話が長くて「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」とユーモラスに描かれているが、「もう死んでいた」という一言が重たく私たちに圧し掛かってくる。
私たちの人生において、このような悲劇は突然襲い掛かってくる。突然の出来事がそれまでの日常を飲み込んでしまう。この時も、そこにいた多くの人が動揺し、騒然としたことだろう。「しかし、パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて」、嘆いている教会のメンバーに言った。「騒ぐな。まだ生きている」。そして、こともあろうか、上に戻って、聖餐を行い、朝までさらに話し続けたというのだ!
何という非常識な振る舞いだろうか、と思う。しかし、神によって与えられる希望は私たちの常識を遥かに超えるのである。私は、これはパウロの信仰の現れのよう思う。この時期のことをパウロは「コリントの信徒への手紙 二」に記している。「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(Ⅱコリント1:8-9)。
「死の宣告」。それは私たちの心を騒がせることだろう。パウロだってそうだったに違いない。しかし、どうしようもすることができない中でパウロは「死者を復活させてくださる神を頼るにするようになりました」と語る。パウロが、エウティコの死を前にしても「騒ぐな!」と語り得たのは、死者を復活させてくださる神に望みを持っていたからである。
私たちの生きる現実にはそれこそ「騒動」が起こる。心穏やかに過ごせる時ばかりではない。「死の宣告」を受けるような試練に直面することだってある。たとえそうでなくても、日常生活の中で、自分の力ではどうしようもすることができない状況に著幾面する。自分でどうあがいても事柄はよくならず、悩んだり、時には悔しい思いをしたり、涙を流したり、砂を噛むような苦々しいことだって味わう。
しかし、「騒ぐな! 神による希望がある!」。それが聖書が私たちに語るメッセージだ。十字架と復活によって私たちに示された希望である。
トロアスに礼拝堂には「たくさんのともし火がついていた」。私たちの教会の礼拝堂にも希望のともし火をともし続けていきたい。