「ともし火を整えよ」 マタイ24:45-25:13 |
「人の子は思いがけない時に来る」。主イエスは弟子たちにご自分の「再臨」ついて語られた。だから「目を覚ましていなさい」。部活でちょっと手を抜いているところを見られて焦るぐらいはかわいいものだが、それが私たちの裁きに関わることだったらそれは一大事だ。主イエスは二つのたとえを通して、再び来たもう主を待つ弟子たちの、すなわち「アドベント」の過ごし方を語っておられる。
最初のたとえにおいて主イエスが「再臨」や「世の終わり」を待つ時のあり方として「家の使用人に食事を与えさせる」務めに忠実であったが問われることは興味深い。「食事の世話」という極めて日常的な、そして人間が生きる上で非常に根源的な事柄をイエス様は気にしておられるのだ。しかもこの主人は、「家の使用人」という「家」の中でもっとも立場の弱い人の存在を気にかけて出かけて行かれたのだ。
「食事を与える」ということは命に心を配ること。「いのちの心配」が私たちの時代にそここにある。「同じ家」(地球家族)に住むもっとも弱い人たちへに「心を配る」ことがキリストの僕には委ねられているのだ。
もう一つ「十人のおとめのたとえ」。このたとえでは「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」の違いは一点だけだ。10人とも「目を覚ましている」ことは出来なかったのだ。彼女らが最後に問われたのは「油を用意していたか」であった。
最初のたとえで「悪い僕」たちが「偽善者たち」と同列で語られている(51節)。外は整っているように見える。しかし、その内側はどうなのか? それが「偽善者」という言葉の持つ問いであった。ともし火と油を用意するということもこの事を言われているのだ。ともし火はある。
19世紀のある牧師は自宅の庭先にいつも馬車を用意していたそうだ。「あれは何のため」と聞かれると「イエス・キリストの再臨の時に、すぐにお迎えに行けるように用意している」と答えたそうだ。馬車を用意することはある意味では間違っている。だけどもその待望の姿勢には真実がある。「油を用意する」とは、「今日がキリストが来られる日」として生きる生き方だ。主イエスは今ここに向かっておられるという約束を信じ、見ていないものを見つつ生きることだ。
先日、バイオリンの美しい音色を聴きながら、キリスト者というのはこの世において弦楽器にはられた弦のような存在だと思った。弦には適当な「テンション」(緊張)が必要なのだ。キリスト者は天と地にはられている弦だ。天上の世界で生きるのでもなく、地上の世界(「食べたり飲んだり」)に埋没するのでもない。地に足を付け、心を天に高く上げて生きる。主を待ち望みつつ今日を生きる。この「テンション」がよい音色を響かせるのであり、それが証しとなり、「ともし火」となるのだ。ともし火を整えよ!