「私たちが目指すもの」 ローマ12章9-21節 大澤茂一長老 |
今日の箇所は、信徒の愛の実践について書いている箇所です。愛について偽りがあってはならないこと、悪に対して悪で返さないで善を持って返すこと、憎しみを持たないこと、良い行いで返すこと、兄弟愛により互いに愛すること、交わりを持つことを求めています。
ルターが語った交わりについての事柄に「汝の敵のただ中に、神の支配がある。そこで、そのことに耐ええない者は、キリストの支配を願わず、友達のただ中にいようとし、バラとユリの中に座っていようとし、悪人と共にいようと願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。ああ、汝ら、神を汚し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、一体誰が救われたであろうか。(ルター)」があります。交わりとは、仲良しグループではなく社会の中のただ中にあって兄弟愛、隣人への愛による交わりをすることです。
北京オリンピックで強く印象が残ったのは、聖火リレーです。特別に訓練された一団に守られ、民衆から隔離された聖火リレーは、何のための聖火リレーであったか。国の威信だけが目立ちました。そこ除け、そこ除け、国家が通る。民衆から隔離された聖火に何の意味があるのだろうか。今は、平和の象徴としての聖火リレーのはずです。また、オリンピックの各競技がアメリカの放送時間にあわせる夜の競技が多かった。これも放送権を高額で獲得したアメリカのメディア要望を受け入れたためです。発端は、大々的に商業主義を取り入れ、多額の放送権料とスポンサー料により運営した1984年のアメリカ、ロスアンゼルス大会からでした。
私たちは、何を目指しているのでしょうか?
毎週日曜日に教会で讃美し、説教を聞き、祈り、交わりを持ちます。何のためでしょう。
礼拝を整え、順序を定めて主日礼拝を守っています。何のためでしょう。
教会での兄弟愛、隣人愛による交わり、奉仕、何のためでしょう。
社会で愛を実践しましたか。兄弟愛を実践しましたか。隣人を愛しましたか。否、否、否が続いたかもしれません。そのような者ですがイエス・キリストの愛により赦されているから立ち直ることができます。希望を持って社会に出て行くことができます。寂しいとき、一人のとき、辛いとき、見放されたとき、必ずイエス・キリストは、そっと共に歩いてくださいます。だから私たちは、生きることができます。「詮方つくれどのぞみ失わず」です。国立のぞみ教会の「のぞみ」は、そこからとられたものです。私たちには「のぞみ」があります。私たちが目指すものは、「神の国、御国が来ますように」です。
『それは、今日実現しないかもしれない、明日も実現しないかもしれない。しかしそのことがあなたの心の中にあることは、よいことだ。あなたがそう試みていることはよいことだ。』今はそのことが見えないかもしれない。その夢は実現しないかもしれない。しかしあなたがそれを実現しようと願っていることは、よいことだ。あなたがそう思うことはよいことだ」キング牧師の説教の一部より