「消去法の召し」 使徒言行録16章6-15章 |
カトリック教会の晴佐久神父はご自身の召命について「消去法の召命」と表現し、「神は巧妙に他の道を断つというやり方で人を召す」ことがある、と言われる。この「消去法の召命」は今日の箇所の理解の一つの助けになる。パウロたちは道が断たれることを通して、歩む道が示された! それ故に、著者ルカは具体的な事柄を書くのではなく、「聖霊から禁じられた」と記したのだ。
来週ユースキャンプが3月まで伝道所であった富士峰山チャペルで行われる。先日下見に出かけた時に、ガランとした部屋を見て複雑な想いになった。私たちの計画通りには行かなかった現実を教えられるような気さえした。しかし、今日の箇所を改めて読みながら、峰山の地での宣教のすべては神の導きの中にあったことを信じたいと思った。私たち側の様々な事情、理由がそこにある。しかし、この出来事の中に巧妙な神の導きがあるこを信じる。
人の目にはパウロたちの宣教計画は挫折したようにさえ映る。しかし、パウロたちが一人のマケドニア人との出会いを通して、道が閉ざされた理由がはっきりと分かった瞬間があった。まさに「消去法の召し」が確信に至った瞬間である。富士峰山伝道所の出来事もそのような神の見ての中にあることを信じる。
そして、私自身の召しについて振り返る時と、私もまた「消去法の召し」によって導かれてきたように思うのだ。私は大学へ進学する時、約束されていた道が大人のエゴによって「断たれた」。何の目的もなく大学に通うことは私とって大きな苦痛であった。しかし、あるクリスチャンの先輩との出会いを通して、自分は何の目的もなくここに居るのではなく、この大学に神様に遣わされているのだ、と信じるようになった。そして、その出来事を経て、今私は牧師として歩んでいる。当時は、なぜ道が閉ざされたのか分からなかったし、大人たちの卑怯さに腹を立てた。しかし、今はあれは「聖霊から禁じられた」と私も告白できる。
「消去法の召し」は私たちの計画の挫折も含むので、大いに悩まされる。たとえ今日、わたしたちはすべてを理解することが出来なかったとしても、のちの日に、「あの日も確かに神の導きの中にあった」と確信する日が来ることを信じて歩む者たちでありたい。