「エルサレムサミット」使徒言行録15章1-21節 |
使徒言行録によれば、会議を開くきっかけとなった出来事は、「ある人々」が異邦人も「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」とアンティオケア教会で教えており、それを巡ってパウロやバルナバたちと激しい論争が生じたということである。これまでにも幾度となく生じた論争であり、それだけ初代教会の中で割礼の問題、モーセの律法をめぐる神学的な課題は大きなものであったということだ。そこで代表者たちが集まり「この問題について協議するために集まった」わけである。
つい先日、洞爺湖サミットが閉幕した。先進諸国の代表者が集まり、会議を行ったわけだが、おそらく私たちが知りえない水面下での政治的な駆け引きが繰り返されていたのだろうと推測する。政治の世界を見るとき、「協議する」といってもはじめから、結論ありきに思えるし、時には数の論理で意見を封じ込めるやり方さえ「ルールに則っている」と開き直る始末だ。
私たちカンバーランド長老教会は、まさに会議を大切にする教会である。小会会議に始まり、先日行われた総会会議に至るまで、私たちの教会は会議を通して教会形成をなしていると言えるわけだ。だからこそ、私たちが教会でどのような質の会議を開いているか、どのような協議をしているかが問われなければならない。
その時、「協議する」という言葉が「見る」という言葉から生まれ、「見極める」と意味を含んでいることは示唆に富んでいる。使徒や長老たちは、問題を「見極める」ために集まった。それは言いかえれば神の御心がどこにあるのかを見極めることに他ならない。「私たちはこれまでこうやってきた!」、「私たちはこう考える!」という意見を交わす中で、一体神様は、今、何を求めておられるのか。しばしば、議論が激しくなると自分の意見こそ主張するが、「神が」という視点が抜け落ちる。神の御心を見極めることに苦心することそこそが会議において重要なことである。それはまた自分の人生の中で様々な決断を下す上で、重要な視点である。
ペトロはコルネリウス一家との出会いなど、自分が経験したことから、神はユダヤ人と異邦人との間に何の差別をもしないことを語った。彼の新しい理解である。ヤコブはペトロの言葉を聖書の言葉から語った。そして、条件付きではあったが「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と一つの結論を導き出したのだ。
教会の会議の中では、多数が賛成したからといってそれが常に真理になるということではない。神の語られる事柄こそが真理である。そのことに教会の会議は謙虚でなければならないのだ。だからこそ、それは同時に神の御心をたずね求めず、政治的に表面的に何の問題もないようにうまく教会を運営することも裁かれなければならない。「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい」のである。