「神の計画」 使徒言行録13章13-30節 |
「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」(13節)。詳しい理由は述べられてはいない。しかし、後にこのヨハネの行動を巡ってバルナバとパウロは決裂することとなる(15章36節以下)。特にパウロにとってこのヨハネの行動は受け入れることのできないことであったようだ。そう考えると、キプロス島を巡り歩く旅の中でパウロとヨハネの間に溝が生じたと想像してしまう。宣教姿勢の違い、これからの行動の仕方、そんなことで議論があったのかもしれない。
聖霊によって送り出されたパウロとバルナバの一行は、何か少数精鋭の選ばれしエリート集団で、ありとあらゆる局面を冷静に対応して乗り切るようなチームではなかった。非常に人間くさいというか、人間的な思惑が絡みあっていたことがこの出来事から思わされる。しかし、それこそが聖書の面白いところであって、何か完璧な集団、能力の高い集団の成功話が書いてあるのではなくて、人間の愚かさであり、弱さにも関わらず、またそういう人の営みを通して神の変わらぬ想いが、貫かれていく。聖書はその神の物語が記されているものだ。
パウロの説教はまさにそのことを証ししている。パウロはイスラエルの歴史を「神が」と神を主語にして語る。すなわち、神が「選び出し」、「導き出し」、「耐え忍び」、「滅ぼし」、「任命し」、「与え」、「送った」と神の働きを語るのだ。1000年以上にわたる歴史を通して、神は絶えずイスラエルに働きかけられていた。しかも、いつもイスラエルの人々が従順であったわけではない。繰り返し、繰り返し神に逆らい、歩んだ。そしてその極みに神が送られたイエスを十字架で殺したという出来事があるのだ。
しかし、にもかかわらず神はイスラエルをお見捨てにならない。なぜか。それが神の約束であり、神の御心だからとしか言えない。ただ神がそうされるからとしか言えない。それが恵みであり、福音なのだ。
ペンテコステに洗礼式があったが、私たちに授けられた洗礼とは「わたしはあなたを見放すことはしない」という神の約束の公の宣言なのである(ウィリモン『洗礼』62頁)。私たちはいつでも神の子としてふさわしく行動しているわけではない。そのことを一番よく知っているのも私たちだ。そして神はそれをご存じなのである。しかし、にもかかわらず私たちは「神の子」なのだ。それは私たちがそれにふさわしいからではなく、神がそうすることを選ばれたからだ。福音とは、たとえイスラエルが神の愛を裏切り、拒否することがあっても、神はイスラエルを選び、愛し続けているということなのだ。その最大の出来事がイエスの十字架と復活において指し示されている。そうパウロはここで説教しているのだ。
私たち一人一人もそして教会も欠けだらけだ。しかし、その「土の器」を神さまがその計画の中で選んでくださった。畏れと感謝を持ってお応えしたいものだ。