「神の接待」 ヨハネ福音書6章51-58節 |
しかし、考えてみると迫害の中にあったヨハネ教会のキリスト者たちが聖餐に与ることはとても危険な行為であったに違いない。聖餐に与るということには大きな信仰の決断が必要であったと思う。イエスの言葉に従うか、それともそこから離れるかというのっぴきならない選択を突きつけられていたのが当時のキリスト者たちの状況であったと思う。そして聖餐に与りながら「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」との言葉に深い慰めと励ましを受け、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という言葉に約束されているようにイエスとの一体性をその魂の深みにおいて味わったのだろう。聖餐は信仰の戦いの中にあった人々にとってそれはまさにキリストの十字架と一体となる信仰の決断を要求されるような時だったのだ。
この夏、CSのキャンプで中学生たちと一緒に分級を守った。洗礼を受けたいという中学生たちに「どうして?」と聞くとたっちゃんが「パンとぶどうジュースを飲みたい」と言った。そして続けて「パンとぶどうジュースに与るまでは新聞配達でたとえるとアルバイトみたいなものだ。僕は本物になりたい」と言った。感動した。礼拝で他の人が聖餐に与る様子を見ながら、そして聖餐式の中で語られる言葉を聞きながら自分も聖餐に与りたい、本物になりたいと思う中学生がいることを誇らしく思った。そして、同時に聖餐に与る私たちは「本物になりたい」という思いをどれだけ真剣に思い巡らしているか、自分の聖餐に与ってきたことを振り返ると反省させられた。
聖餐の中心は十字架で裂かれた主イエスの肉と流された血潮だ。そしてヨハネ福音書はその裂かれた肉と血によって神の愛が示されたとわたしたちに伝える。「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」(3:16)。「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない」(15:13)。
わたしたち、わたしたちの存在は神の子の命を犠牲にしてまでも愛される存在であるということをしばしば忘れてしまう。この愛を離れてあなたの内に命はないと主イエスは私たちに言われる。そしてこの愛に留まるようにと。
今、混沌としたこの時代の中で必要とされているのは自らを裂かれて与えられた主イエスの愛だ。その愛にわたしたちが与る時、わたしたちは自らの殻を破り、自らを開いていく歩みへと変えられていく。そこに命がある。神は、イエスの命をかけて、私たちを招いておられる。イエスの命の食卓に共に与ろう。